砒素が正常状態の人間の身体のなかにも存在するばかりか、何十年何百年というあいだ、毛髪や骨に蓄積され残留する事実は、よく知られているが、最近では核反応炉で故人の遺髪や骨を照射して、はるかな過去に謎の死をとげた人物の、死因を究明してみることも可能になったようである。

十六世紀のスエーデン王エリック十四世の遺骸(防腐処置をほどこされ、一種のミイラになっていた)も、これに類する方法で検査されたが、ごく最近(一九六二年)では、ナポレオンの遺髪がやはりこのような調査の対象になった。こうした方法によって、それまで曖昧だった歴史の決定的な塗り変えや、個人の名誉回復が行われることも十分考えられる。

ナポレオンがセント・ヘレナ島で死んだとき、その死因について、毒殺か病死かの議論はいろいろと取沙汰され、結局、深い謎に包まれて今日に至っていたのであった。

ところが、イギリスの科学誌「自然《ネイチャー》」の最近号に、グラスゴウ大学のハミルトン・スミス博士とスエーデンのゲーテボルク大学のアンデルス・バゼーン博士の二人が共同発表の形で、ナポレオンの頭髪には、常人の十三倍にも及ぶ砒素が含まれていることを確認したと公表したのである。調査の材料に使った髪の毛は、ナポレオンが死んだ翌日に採られたもので、それをハーウェル実験所の核反応炉で照射させた結果、以上のごとき事実が判明したのであった。

これだけで毒殺説を決定的なものと考えることは、いささか困難らしいが、いずれにせよ、死の直前、「自分はイギリスの寡頭政治の手先に虐殺されて、死んで行くのだ」と叫んだナポレオンの言葉が、ふたたび新らしい現実性をもって生きてきたことは否めないだろう。

この方法をもっと組織的に大規模に応用して、歴史上に謎の死をとげた人物の墓をどんどんあばいて行ったら、さぞかし面白いだろう。

もっとも、そうなったら非常に都合のわるい立場に立たされる側の政府や家族もあることだから、権力や金の力による妨害は必至と見られるし、これは所詮、不可能な夢の計画であるかもしれない。

ナポレオンにふれた序でに述べておくと、彼もまた、一生涯、毒殺の脅威におびえながら生きていた独裁者であり、彼自身も毒薬を使った嫌疑がある。カンポ・フォルミオの調印後、執政官たちが彼のために催した晩餐会では、並べ立てられた御馳走のほとんど一皿にも、彼は手をつけなかったと言われる。また彼は、シリアのヤッファでペストに罹った兵隊八十七人を毒殺したと非難されたこともある。

フォンテーヌブロオに追いつめられて、ついに帝位を退かねばならなくなったとき、ナポレオンは、壱千八百壱拾四年月十二日の深夜、毒薬によって自らの生命を絶とうと試みた。しかし、彼が水に溶かした毒薬は、あまりにも古く、湿っていて、この自殺は不成功に終った。

ある侍従の回想録によると、皇帝はロシヤ戦線でも英国戦線でも、つねに毒薬を肌身離さず、小さな黒い絹の袋に入れて、首から紐で吊っていたと伝えられる。むろん、これはいざという場合に、自殺をして果てるためのものだった。…
ある侍従の回想録によると、皇帝は[[ロシヤ戦線>ロシア遠征]]でも英国戦線でも、つねに毒薬を肌身離さず、小さな黒い絹の袋に入れて、首から紐で吊っていたと伝えられる。むろん、これはいざという場合に、自殺をして果てるためのものだった。…


#ls2(毒薬の手帖/毒草園から近代化学へ)

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