富裕な材木商の息子として生まれたウイリアム・パルマーは、一八四六年、故郷のリュージュリイという小さな町で医者を開業し、アンナ・ブルックスという金持の大佐の娘と結婚したのであるが、生来気違いじみた賭博好きで、競馬に熱中し、たちまち莫大な負債をつくってしまった。義父の大佐はすでに死んでいたが、未亡人のマリイ夫人は動産や不動産をたくさん受け継いでいた。一八四九年、マリイ夫人は婿の家に呼ばれ、そのまま半月ばかり寝込んだ挙句、原因不明の死をとげた。たぶん、これがパルマーの最初の犯罪である。

この最初の犯罪は発覚しなかったけれど、パルマーは未亡人の財産を手に入れるわけにはいかなかった。それというのも、妻のアンナは大佐の私生児で、ほかに正系の財産相続人がいたからである。未亡人の財産は寄託に付されてしまった。

期待を裏切られたパルマーは、躍起になって今度は別の人間に目をつけた。何とかして借金の穴埋めをしなければならない。たまたま競馬場で、ブラドンという男と知り合いになった。ブラドンは競馬場の顔役で、競馬の賭帳をもっている胴元みたいな男である。賭帳さえ奪えば大金がころがり込む。

この男と親しくなると、パルマーは彼をリュージュリイの自宅に招いたが、彼もまた、旬日ならずして突然の死に見舞われる運命となった。パルマーに頼まれてブラドンの死亡診断書を書いたのは、人の好い七十いくつのバンフォードという医者で、パルマーとは以前からの親しい仲だった。老人の医者は少しも疑惑を抱かずに、ブラドンがコレラによって死んだことを証明する診断書にサインをした。

なにしろ怖ろしい伝染病で死んだというので、屍体はさっそく棺に納められ、未亡人も別に調査を依頼する気にはならなかったらしい。競馬の賭帳が紛失しているのに疑念をもった者もいたが、それだけの理由で医者を訴えるわけにもいかなった。

犯罪の成功に気をよくしたパルマーは、さらに新たな手段を思いついた。ふたたび借金をして、自分の妻を生命保険に加入させ、三つの保険会社と総額一万三千ポンドの契約を結んだのである。むろん、妻が死ねば保険金は自分のものになる。

気の毒にも、アンナは二十八歳の身で悶死しなければならなかった。パルマーが喜び勇んで一万三千ポンドを手に入れたのは、言うまでもない。診断書にはやはりコレラと書かれた。愚鈍な老いぼれ医者バンフォードが、今度の場合も、何も知らずにパルマーの犯罪に協力していたのだ。

次の犠牲者は実の弟であった。弟はウォルターといい、ひどいアル中患者であったが、パルマーは八万ポンドという法外な金額を支払う契約で、この弟を生命保険に加入させようとしたのである。こんな馬鹿な契約に応じる会社はなかったが、ただプリンス・オブ・ウェールスという保険会社が、一万三千ポンドなら契約してもよいという意向を示した。契約がきまると、この弟は一八五五年八月、早くも卒中で死ぬことになった。

ところが、この犯罪は一文の得にもならなかった。ひそかに死因を調査した保険会社が、ウォルターの死ぬ前日、パルマーがスタッフォードのある薬局で一オンスの青酸を買ったことを探知したのである。会社は支払を拒否し、もし騒ぎを起すなら訴えてやると、逆にパルマーをおびやかす始末だった。さすがの彼も、これには黙って引きさがるよりほかに手がなかった。

大抵の犯罪者なら、この辺で身の危険を感じて、今までの無鉄砲な行動をつつしみ、場合によっては行方をくらますことも真剣に考えるはずであろうが、このパルマーという男は、あくまで大胆不敵だった。医者という職業が恰好なカクレミノになったという事情もあろう。それに、根っからのギャンブラーであった彼には、一か八かの冒険がいつも必要であったのかもしれない。

相変らず競馬場に通っては、賭のスリルに我を忘れていたパルマーは何度大金を手にしても、右から左へ蕩尽してしまい、いつも借金取りにうるさく付きまとわれる生活から足を洗うことができなかった。そんなとき、又しても競馬場で知り合ったのがジョン・パーソンズ・クックという若い法律家である。

相変らず競馬場に通っては、賭のスリルに我を忘れていたパルマーは何度大金を手にしても、右から左へ蕩尽してしまい、いつも借金取りにうるさく付きまとわれる生活から足を洗うことができなかった。そんなとき、又しても競馬場で知り合ったのがジョン・パーソンズ・クックという若い法律家である。この男も相当な競馬気違いで、親から譲り受けた薬一万五千ポンドの遺産を、そっくり馬種改良のために使おうと計画していた。趣味の一致から、二人は急速に親しさを増し、いつも一緒に居酒屋へ行ったり、同じホテルへ泊まったりするようになった。

一八五五年十一月、クックが莫大な費用をかけて育てた一匹の若駒が、初めてレースで一着になったとき、成功を祝して宴会がひらかれた。さまざまな関係者が集まって、シャンパンを抜き、一同陽気に騒いでいた。そのとき、パルマーは機を見て酒杯に毒薬を注ぎ、これを親友に差し出したのである。クックは酒杯を一気に空けると、「何か入っているようだな。喉が焼けるように熱いぞ…」と不安そうに叫んだ。「馬鹿だな。何も入ってやしないよ」とパルマーは笑って答えて、自分も杯をぐっと呷った。

しかし夜になって、クックは猛烈な嘔き気に引きつづき何度も襲われ、親友の医者に看病されながら、もう死ぬんじゃないかと思ったほどだった。それでも下剤をかけられて、二日もすると気分がおさまり、また競馬場に足を運べるくらいにはなったが、やはり体の調子はどこか良くないので、パルマーに誘われるままに、リュージュリイの町にきて、友達の家の真向いに位置したタルボッツ・アームズ・ホテルという旅館の一室を借り、しばらくここで静養することになった。

パルマーはほくそ笑んだ。もう占めたものである。獲物はまんまと罠にかかった…やがて医者が丸薬を引きつづき嚥ませはじめると、おそろしい痙攣の発作が起り、口からは黄色い胆汁の混った泡を吹き、クックは恐怖にみちた悲鳴をあげるようになった。

ストリキニーネ特有の強直痙攣は、頭を後方へのけぞらせ、手をふるわせ、全身を弓なりに曲げ、あたかも後頭部と踵でもって全身を支えているような奇怪な姿勢を呈する。嘔吐はストリキニーネ中毒に特有ではないが、同時に口中の緊張感と、咀嚼困難とを訴え、ヒステリイないしテタヌス(破傷風症)風の痙攣を伴うことが多いのである。

しかも昏睡状態に陥ることがなく、一般に意識は明瞭なので、その間の苦痛には耐えがたいものがあり、また痙攣は一、二分ぐらいでおさまるとは限らない。一時小康を取りもどしても、がくがく顎や手脚の痙攣を繰り返し、患者の身体や寝具にちょっと触っただけでも、ふたたび激しい全身痙攣を惹き起すことになりかねない。それほど刺戟に敏感なのだ。そんな状態が二時間でも三時間でも続くので、患者は精も根も使いつくして、へとへとに疲れ果ててしまう。…

十一月二十日の夜半にいたって、クックは俄然苦しみ出した。パルマーはあらかじめ犯意があったことを見抜かれないために、例の薮医者バンフォードを含めた三人の医者の手に、瀕死のクックを任せておいたのであるが、いよいよ最後の時になって、自分も枕頭に駆けつけた。そして例の丸薬を二粒、患者に嚥ませたのである。効果はただちに現われた。二分後に、死の痙攣がクックの全身を強直させ、背骨は弓なりに曲がり、腕はねじくれ、眼は飛び出さんばかりに大きくなった。こうしてついに、クックは全身を棒のように固くして、悲惨な窒息死をとげたのである。

死んでしまうと、パルマーは前後の見境もなく、三人の医者を帰らせて、クックの洋服のポケットを探り、現金や手形を自分のものにして、翌日さっそく、債権者に借金を堂々と返済したというから、まことに無謀というか無鉄砲というか、その異常な心理には、測りかねるものがある。

しかし彼の度重なる凶行も、ついに発覚する日がきた。クックの義兄が不審の念を起し、屍体の解剖をその筋に依頼したのだ。そこで初めて警察が動き出し、いろいろ調査をしてみると、犯行の少し以前にパルマーが阿片、アンチモン、青酸、ストリキニーネなどの薬物を購入している事実が明るみに出た。これだけの毒物が揃っていれば、何百人の人間を殺せるか知れたものではない。ところが、屍体には阿片も、アンチモンも、青酸も、発見されなかったので、パルマーを断罪するには、どうしてもクックがストリキニーネのみによって殺されたということが証明されねばならなかった。

ロンドンに移された訴訟は、にわかに活発な論争を惹き起した。弁論は一八五六年五月十四日から二十六日まで続き、法廷には著名人士が多数集まった。証人に立った毒物学者や専門家は、てんでに勝手な意見を述べて、ある者は死因を癲癇だとか、破傷風だとか言い、また他の者は卒中だとか、梅毒だとか主張した。ようやく最後に動物実験の結果、クックの死がストリキニーネの錠剤の服用によるらしいことがわかり、大部分の者がこの説に傾いたので、被告はきわめて不利な立場に追い込まれることになった。

その上、パルマーは逮捕される前に不用意な言葉を洩らしていた。すなわち、解剖のためにハーランド博士が事件の起った町にやってきたとき、彼は博士をいそいそと出迎えて、クックが癲癇の発作をしばしば起したこと、彼の頭に不治の痼疾があったことなどを、いかにも自分の意見を相手に押しつけるような調子で語ったというのである。

それから、パルマーは何食わぬ顔で解剖にも立会ったのであるが、執刀者が胃の中から発見された物質の一部を取り出すと、パルマーはわざと肘で執刀者を突いて、彼の手もとを狂わせ、取り出した物質を見失わせようとしたらしい。そんな事実を証言する者もあって、彼の立場はいやが上にも悪くなった。

むろん、なかには彼の立場を弁護する者もあった。有名な毒物学者のレスビイ博士などがその一人で、果して死因がストリキニーネによるか否かは、軽々に断定しがたいと主張するのである。しかし大勢は、すでにテイラー博士の明快な意見に差袒していて、弁護士の蜿蜒八時間にわたる大熱弁も無駄に終った。証言に立ったテイラー博士は、次のように言っていたのである、「医学教授として私は断言するが、クック氏の症候は、ストリキニーネによるものと見なす以外には考えられない」と。

死刑が宣告されると、奇妙な噂がロンドンの町々に流された。死んだクックは、かつて自分が棄てた情婦に復讐され、毒を盛られたというのである。

処刑は六月十四日、おびただしい群衆を集めてスタッフォードで行われた。エリザベス朝の昔以来、残酷な処刑の有様を見物するのが大好きなアングロ・サクソン民族である。一方、パルマーは少しも威厳を失わず、最後まで自分が誤診の犠牲者であることを主張しながら、堂々と死に赴いたそうである。

#ls2(毒薬の手帖/巧妙な医者の犯罪)

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