ここでちょっと、チェザーレとルクレチアのために弁護しておかねばならないが、彼らボルジア家の人間は、すべて残忍な毒薬愛好家であるとともに、洗練された文化や芸術の保護者でもあったのだ。

三度目の結婚で文化の香り高いフェラーラのエステ家に嫁ぐと、ルクレチアは当時のルネサンス的貴婦人らしく、詩人アリオスト、ベンボ、画家ティツィアーノなどを招いて彼らと芸術を語り、自分でも詩を作ったりした。

また兄のチェザーレも、ボロニヤ攻撃の軍隊中に、技師長としてレオナルド・ダ・ヴィンチを加えたり、マキアヴェルリやミケランジェロと、親しく友達づき合いしたりしていた。

いささか奇矯な言辞を弄すれば、文化の洗練の殺人の洗練とは、おそらく、いつの時代にも並行して達成されるのであろう。毒薬への強熱は、なにもボルジア家ひとりの偏奇な嗜好ではなく、当時のイタリアの上流階級にあって、きわめて一般化した風潮でもあったのだ

たとえば、多数の古典学者を身辺に集め、自分も第一流のディレッタントであったリミニ家の専制君主ジギスモンド・マラテスタの宮廷でも、姦通した妻や娘は容赦なく毒殺されていた。フィレンツェのメディチ家でも、不行跡をした女の毒殺は日常茶飯であったと言われる。

毒殺と陰謀によって権力への階段を駆けあがり、ついにメディチ家のフランチェスコ(トスカナ大公)の愛人たる地位を得た才色兼備のビアンカ・カペルロも、最後に身みずから毒殺された。

サヴェルリ家では、砒素を塗布した鍵を使っていた。指環の二つの石のあいだから、微細な注射器によって毒薬が飛び出す仕掛になっているものもあった。

フェラーラのエステ家に仕えた詩人タッソオは、魔術を信じていたので、自分のまわりにいつも呪術師や敵がいると思いこみ、神経衰弱になり、ジャムのなかに毒が入っていると考えた。

ミランドラ市の富裕な[[ピコ家に生まれた神秘哲学者ジョヴァンニ>ジョヴァンニ・ピコ]]も、毒殺された。秘書が主人の金を盗もうとして、毒を盛ったのである。

最後に、ユリウス二世の後をついだメディチ家の法王レオ十世も、一五二一年に毒殺された。…

しかし、イタリアの毒殺者はその活動範囲を国内だけに限っていたのではなかった。彼らは国境を越えて、カルル五世やフランソワ一世の軍隊に加わり、ほとんどすべてのヨーロッパの宮廷に根をおろしたのである。イタリア式毒殺の方法は遠くロシアにまで及び、イワン四世がこれを利用した。


#ls2(毒薬の手帖/ボルジア家の天才)

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