Jehan de Mandeville ("Sir John Mandeville"), the name claimed by the compiler of a singular book of travels, written in French, and published between 1357 and 1371.-[[wikipedia.en>http://en.wikipedia.org/wiki/Jehan_de_Mandeville]]

ジャン・ド・マンデヴィルの東方旅行記を個人で日本語訳し、公開しようという鼠海氏のすばらしいプロジェクト[[ジョン・マンデヴィル卿の旅行・The Travels of Sir John Mandeville>http://homepage2.nifty.com/arumukos/unnk/unncssry/mndvlltrvls/index.html]]

[[原文 project Gutenberg>http://sailor.gutenberg.org/etext97/tosjm10.txt]]
:人物
:作者 リエージュ市(ベルギー)で罹病し、「顎鬚のジャン」なる医師の勧めで各国を旅行したありさまを見聞録にしたためたという英国人マンデヴィルは、はたして実在はせず、正真の作者は、リエージュ市在住のジャン・ド・プレ Jean des Preis ことジャン・ドゥートルムーズ (Jean d'Outremeuse 1338-1399頃) であるという考察がなされている。
:作者 
リエージュ市(ベルギー)で罹病し、「顎鬚のジャン」なる医師の勧めで各国を旅行したありさまを見聞録にしたためたという英国人マンデヴィルは、はたして実在はせず、正真の作者は、リエージュ市在住のジャン・ド・プレ Jean des Preis ことジャン・ドゥートルムーズ (Jean d'Outremeuse 1338-1399頃) であるという考察がなされている。
 ジャン・ドゥートルムーズは、その『歴史の鑑(Myreur des Histors)』の、今では逸失した第4巻に、「顎鬚のジャン」が死の床にあって実名を英国の伯爵ジャン・ド・マンデヴィルと明かしたこと、その蔵書を自分に託したこと、などを記している。
 このことばを真に受けるどうかだが、『マンデヴィル旅行記』の筆者は、英国の地理にもうとくフランス語が母国と考えられる、二人は(単に同じ文献を共通して通読した間柄ではなく)、同一人物とみられる傾向がつよい。
 このことばを真に受けるどうか、今では立証するすべはないが、『マンデヴィル旅行記』の筆者は、英国の地理にもうとく、フランス語が母国語と考えられる等から、二人は(単に文献を共通した間柄ではなく)、同一人物とみられている。

[[参:The Cambridge History of English and American Literature , II.III.7>http://www.bartleby.com/212/0307.html]]

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