アレクサンドリアに蟄居するクレオパトラに、[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]から呼出しの声がかかったのは、それから三年後のことである。彼女が以前カシウスの一味に財政上の援助をあたえたのはなぜか、申し開きをせよというのである。だが、これはほんの口実にすぎないことを、クレオパトラはとっくに見抜いていた。

[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]は[[ケーサル>ガイウス・ユリウス・カエサル]]亡きあとのローマでは、何といっても随一の存在である。彼に並ぶものといっては、[[ケーサル>ガイウス・ユリウス・カエサル]]の養子オクタヴィアヌスがあるばかりだった。しかしこの男はまだ若すぎた。

武人の[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]は、気前のよい、ごく単純な性格の持主だった。彼は[[ケーサル>ガイウス・ユリウス・カエサル]]のような名門の出ではなく、田舎者まる出しのところがあって、場所柄もわきまえず酒と女に溺れて人々の顰蹙を買ったりしたこともあったが、このころでは男まさりの妻フルヴィアに教育されて、大分おとなしくなっていた。

それが小アジアまで来て、戦勝の宴に酔ううちに、ついクレオパトラのことを思い出したのである。

来るべきものが来たのであった。クレオパトラは、今度こそ存分に利用してみせる自信があった。彼女はいま、美しさの絶頂にあった。

[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]はトルコのタルソスで、彼女を待ちうけていた。そこへクレオパトラは、金色の船に銀の櫂《かい》で、紅の帆をかかげ、楽の音に合せてしずしずと河を遡ってきた。彼女自身は黄金の刺繍をした天蓋の下に、キュピドの扮装をした美童を両側にはべらせて、ウェヌスさながらに着飾ってすわっていた。数多の美しい侍女たちが、海の精ネレイスの衣裳で、舳先や艫に立ち並んでいた。

両岸の市民は感激してこのさまを見守った。ナイルのウェヌスがアジアの幸福のために、ローマのバッコスのところへやって来たのだという噂がひろまった。

[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]はまずクレオパトラを会食に招待したが、彼より役者が一枚上手の彼女は、それよりも自分のところへ来ていただきたいと頼んだ。

その夜の宴の、聞きしにまさる豪華さに、ローマの軍人たちはすっかり度胆を抜かれた。林立する燈火の数と、その趣好をこらした配置だけでも、[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]の目を見はらせるに十分だった。翌日も、翌々日も同様だった。四日目には床一面、くるぶしを没するまでの深さに薔薇の花が敷きつめられていた。
その夜の宴の、聞きしにまさる豪華さに、ローマの軍人たちはすっかり度胆を抜かれた。林立する燈火の数と、その趣好をこらした配置だけでも、[[アントニウス>マルクス・アントニ

[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]が、あまりに正直に感激のようすをさらけ出すもので、クレオパトラは、この男が兵隊あがりの賤しい素姓の者であることを、いっぺんで見抜いてしまった。

五日目に、ようやくクレオパトラが[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]の客となったが、いくら知恵をしぼり、腕によりをかけたところで、到底相手の洗練と豪奢をしのぐことはできなかった。

こうなると、[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]はもうクレオパトラのいいなりだった。誘われるままに彼は、ローマへ帰るかわりにアレクサンドリアへ冬を過ごしにでかけた。竜宮城の浦島さながら、[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]にとっては夢のような、夜を日についでの歓楽がそこに待ち受けていた。

アレクサンドリアは、当時の地中海世界の最も富裕な、優雅と豪奢と倦怠の都だった。港では、世界のあらゆる富がたえず陸揚げされた。アフリカからは象牙、黒檀、金、香料ギリシア本土からは油、葡萄酒、蜜、塩漬の魚、等々。遠くインドから来る船も多かった。港の入口には、古代七不思議の一つといわれたファロスの燈台が、出入する船をみちびいていた。

クレオパトラは、これらの富を意のままに費消することのできる、エジプトの絶対君主であった。恋人たちは「無双の会」というのを作って、その名の通りだれにも真似のできないほどの贅沢三昧にふけった。

あの日のこと、二人は最も高価な御馳走をしたほうが勝ちになるという賭をした。だがクレオパトラの出した食事は、普段とそれほど変ったものではなかった。[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]が勝ち誇って料理の値段をきこうとすると、クレオパトラは、まだデザートがありますといって、自分の耳飾りから先祖伝来の宝である大粒の真珠をはずすと、用意した酢の盃にほうりこんだ。真珠はまたたくまに溶けた。彼女は一気にそれを呑んでしまった。

こんな話はいくらでもある。じっさい[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]は、クレオパトラの機智に終始翻弄され通しだった。

二人で魚釣をしたときのこと、[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]はいくら待っても運が向かないので、こっそり漁師を水に潜らせて自分の針に魚をかけさせた。クレオパトラはすぐそれと察したが、素知らぬ顔で相手を賞めそやした。翌日も釣ということになり、[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]が意気揚々、最初の獲物を釣り上げてみると、何とそれは、黒海でしか取れない大きな魚の塩漬だった。むろん、クレオパトラが漁師を買収しておいたのである。このときクレオパトラが漁師を買収しておいたのである。このときクレオパトラは、[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]にこういったという。「インペラトール、そんな釣棹はファロスかカノボスの王にやっておしまいなさいな。あなたの釣の獲物は、都や国や、大陸でなくてはならないんですから」

クレオパトラは、美貌もさることながら、何よりもその才気の縦横にあふれた会話がひとを惹きつけたという。だから、[[ケーサル>ガイウス・ユリウス・カエサル]]やオクタヴィアヌスのように、彼女に十分太刀打ちできるだけの頭脳を持ち合わせなかった[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]の場合、それだけ一層容易にクレオパトラの魅力に虜にされたわけであろう。
#ls2(世界悪女物語/クレオパトラ)


トップ   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS