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クレオパトラの属するプトレマイオス王朝は、血統的にはエジプト人ではなく、征服者のマケドニア人、すなわちアレクサンドロス大王の武将ラゴスの後衛であった。

プトレマイオス王家には、クレオパトラと名乗る女王や王妃が前後七人もいる。問題の彼女、クレオパトラ七世が生まれたころ、この王家はお家騒動の真最中だった。

彼女の父プトレマイオス十二世が、王祖の直系ではなかったのだ。エジプト人のあいだで王家の血統が問題になっている時に、かねてから機会をねらっていたローマがこれに干渉した。それには恰好な口実があって、先代プトレマイオス十一世がエジプトの王権をローマに譲ると約束した遺言書が、ローマにあるというのである。

当時のエジプト国民は、柔弱な王プトレマイオス十二世に「アウレテス」(笛吹き)という渾名をつけて、てんから馬鹿にしていた。彼は酒好きで、酔うとすぐに笛を取り出して、得意になって吹きならす癖があったからである。

キュプロス島がついにローマの手中に奪われると、この笛吹き王は、怒った人民に追い出され、ローマに泣きついてお助けを乞う破目になった。

若いローマの騎兵隊長[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]が、こうしてエジプトにやってくることになったのである。

エジプトの首都アレクサンドリアでは、アウレテスの長女ベレニケと、ミトリダテス大王の息子アルケラオスが新たに王座に迎えられていたが、たちまちのうちに[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]=アウレテスの連合軍に一掃されてしまった。アルケラオスは戦死し、ベレニケは父の手によって殺された。

アウレテスは、自分を追い出した不埒な人民どもへの復讐をあせったが、[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]はこれを極力抑え、逆にアルケラオスの葬式を丁重に営んでやったので、アレクサンドリアでは非常な好感をもって迎えられた。しかし、[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]のほうでもこの王国を、いつしか好ましく思いはじめたのは、単にそれだけの理由からではない。王家の小さな淑女、死んだベレニケの妹の、当年十四歳になる才気煥発なクレオパトラのすがたが、この時すでに彼の心にしっかりと刻みつけられていたのである。

一方、クレオパトラのほうでも、このローマの騎兵隊長の英姿を、幼な心に感嘆して見つめていた。無理もないことである。[[アントニウス>マルクス・アントニウス]]は、ヘラクレスの末裔という伝えにふさわしく、りっぱな髯と広い額と鷲のような鼻を持つ堂々たる美男で、ローマの貴婦人たちのあいだでも、頼もしい騎兵隊長との交わすまなざしに、ひそかな火花が散っていたのを、当時はまだ、だれひとり知るよしもなかった。

アウレテスはまもなく死に、遺言によって十七歳の次女クレオパトラが、八つ年下の弟プトレマイオス十三世と結婚して王座につくことになった。姉弟もしくは兄妹の結婚というこの奇々怪々な習慣は、古来エジプト王家に独特のもので、単なる形式上のことである。

王様になったとはいえ、まだ十歳にも満たない弟はまったくのやんちゃ坊主で、それをよいことに宦官《かんがん》のポテイノス一派が、エジプトの国政を思うままに操ることになった。

クレオパトラはしかし、こんな状態にはとても我慢がならなかった。支配者になること―これこそ彼女の若年からの望みであり、そのために、すでに非常な努力と研究が重ねられていたのである。非力な父王の醜態は、クレオパトラにとって何よりの教訓だった。まず国民の好感を得ることが先決問題なのだ。彼女はできるだけ民衆の心を心としようと努めた。

マケドニア出のプトレマイオス一族のうちで、民衆の言葉であるエジプト語が話せるようになったのは、彼女が初めてだったといわれる。

宗教上でも、彼女はみずからエジプトの太陽神ラーの娘であると公言し、イシスやハトホルの礼拝を行った。ハトホルはエジプトの美と愛の女神で、つまり、ローマのウェヌスにあたる。イシスはヘラにあたっている。

こうした努力が実を結び、若くて美しい女王の評判は、民衆のあいだに急速に高まった。彼女はこれに力を得て、さっそく軍隊をかき集め、弟の一派と戦おうとしたが、こればかりはいかにも時期尚早にすぎた。けしからぬ女王さまは、逆にアラビア国境に追放される憂目を見た。

三年経った。

このころローマでは、[[ケーサル>ガイウス・ユリウス・カエサル]](すなわち[[シーザー>ガイウス・ユリウス・カエサル]])とポンペイウスの両巨頭の対立が日毎に激化して、ついにファルサリアの決戦となった。敗れたポンペイウスはエジプトまで逃げこんできたが、宦官ポテイノスはこれをだまし討ちにして、アレクサンドリアの埠頭で殺してしまった。追いかけてきた[[ケーサル>ガイウス・ユリウス・カエサル]]は、競争者の思いがけない最期を知って、内心ひそかに喜んだが、しかし油断してはいられなかった。陰険なエジプト宮廷は、[[ケーサル>ガイウス・ユリウス・カエサル]]に対しても何を企んでいるのかわからなかったからである。[[ケーサル>ガイウス・ユリウス・カエサル]]は身を護るために、夜は宴会をして過ごすことにした。

そうしたある晩のこと、アレクサンドリアの港に一艘の目立たぬ小舟が着いた。ひとりの男が、舟のなかから、革紐でしばった大きな夜具包みを抱え出して、王宮目ざして運んで行く。華やかな夜の宴に浮かれ気分の番兵たちは、さして気にも留めずにこの男を見送る。

[[ケーサル>ガイウス・ユリウス・カエサル]]は、自室に運びこまれた奇妙な夜具包みを、いぶかりながらほどきかけて、あっと声をあげた。中にはなんと、悩ましげな美女が鎮座ましましていたのである。いうまでもなく、この美女こそクレオパトラで、運んだ男は彼女の腹心、[[シチリア>シチリア島]]のアポロドロスであった。

クレオパトラの大胆きわまる一世一代の奇計は、みごと功を奏した。五十三歳のローマの英雄は、手もなく参ってしまい、この夜から彼女と寝室を共にするようになった。

驚いたのは、彼女の名義上の夫たる国王プトレマイオス十三世である。宦官ポテイノス一派も歯ぎしりして口惜しがったが、すでに後の祭だった。[[ケーサル>ガイウス・ユリウス・カエサル]]は、ローマ人と姉との「密通」に気も狂わんばかりの国王をなだめ賺し、二人を和解させて、ふたたびエジプトを彼らの共同統治とする旨宣言する。しかしやがて、若い[[プトレマイオス王>プトレマイオス十三世]]は宦官どもの叛乱の際に殺され、こうしてエジプトは事実上、ついにクレオパトラだけのものになるのである。むろん、それには[[ケーサル>ガイウス・ユリウス・カエサル]]の力添えがつねにはたらいていた。
#ls2(世界悪女物語/クレオパトラ)

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