(5)ラコスト夫人事件

この事件は、スペイン国境に近いフランスの南部ジェル県で起った。前のラファルジュ事件と似ている点もあるが、遺産相続という金銭的な問題がからんでくるので、一見、女の犯行の動機に一層現実的な要素が見てとれる。

ボッシュ近在のある村の地主であったアンリ・ラコストは、六十六歳で、かねがね自分が教育費など出してやっていた姪のユージェニイ・ヴェルジェと、一八四一年五月に結婚した。夫婦の年齢の違いは四十三である。つまり、花嫁は結婚したとき二十三歳だったわけだ。

ところが、結婚後いくら待っても子供ができず、色好みの老人は妻をほったらかし、女中に手を出して私生児をつくってしまった。そればかりが、老人は自分が死んだら財産を分けてやると女中に約束してしまったらしいので、孤閨を守るラコスト夫人は不安でたまらず、このことをメロオという男に打ち明けて相談したのである。メロオは村の小学校の教師で、かつて薬学を勉強したことのある男だった。

この男が毒薬を使うことを夫人に勧めたのだろうか?それとも、この男自身がみずから老人の酒に毒を注いだのだろうか?いずれにせよ、老人はある晩、村の祭りから酔って帰ってくると、そのまま病の床につき、たちまちのうちに死んでしまったのだ。一八四三年五月二十四日の事である。

最初のうちは、誰も疑念をいだく者はいなかった。正当な地位にあった妻が夫の遺産を相続するのは、べつに不思議はないからである。けれども、永いこと愛情に飢えていた妻が、夫の死とともに、すさまじい御乱行に耽りはじめるのを見ると、口さがない村のおかみさん連中は、黙っていられなくなった。あんなに夢中になって男と遊びまわるのは、たぶん怖ろしい罪の意識を忘れるためだろう、などと陰口をきき出した。こんな陰口が彼女の耳にまで入るようになると、ラコスト夫人の方も黙っていられず、さっそく初審裁判所検事に手紙を出して、夫の屍体の調査を依頼した。

当時はすでにマーシュの装置が法医学に応用されていたので、鑑定には暇を要さなかった。鑑定の結果は、彼女の期待に反して、肝臓に多量の砒素(五ミリグラム以上)が含有されているという事実を示した。

ラファルジュ事件の際の半ミリグラムに比べて、これはまた桁違いの量である。おまけに、棺の周囲の土中には少しも砒素が含まれていなかった!

一八四四年七月に、オッシュの重罪裁判所で法廷が開かれたとき、それまで六ヶ月ものあいだ司法の目をくらまして逃げまわっていたラコスト夫人は、ついに自首して出た。

ラファルジュ夫人事件の弁論の結果を考えれば、この事件は、当然、被告の有罪によって幕を閉じるかと思われた。ところが、この事件を担当した弁護士は毒物学の知識に通じていて、非常に弁も立つ男だった。正常状態の人間の体内に含まれる砒素の量という、きわめて微妙な問題に弁論の焦点を置いた彼は、死んだラコストが生前から、水泡疹やヘルニヤの治療のために、砒素を含んだ薬品を使用していたという事実をあげて、検察側証人の主張を片っぱしからくつがえし、ついに、被告の無実をかち取ることに成功したのである。

「科学上の仮設に、私たちは信を置くことができましょうか?明日の科学は昨日の科学を反駁し去ります。医者にかかるのが嫌いだったラコストは、何年も前から、自分で調合した薬をみずから治療に用いておりました。彼はもしかしたら、偶然に自分で自分を毒殺したのではありますまいか?被告がその夫に砒素を嚥ませたという証拠が少しもない以上、この毒は、ラコストの体内に、自然に存在していた、と考えるべきではありますまいか?」

もし、ラファルジュ事件のときの弁護士も、このときの弁護士ほど毒物学の知識に通じていたら、あるいは彼女は無罪になったかもしれないのである。ラファルジュ氏には癲癇の持病があり、その治療のために医者に勧められて、コールタールを嚥んでいたという事実があったのであるが、この点を力説すれば、あるいは彼の死も、医療上の偶然死と認められたかもしれないのである。

毒殺事件の裁判には、法医学や毒物学に通じた弁護士が絶対に必要である。科学的な蓋然性の問題が、すべてを決してしまうのだということを、この二つの裁判ほど明瞭に示してくれるものはない。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:02:52