さて、ここで、古代における毒物研究の第一人者として、間違いなく折紙をつけられる不思議な人物を御紹介しておこう。それは、歴史上でも有名な、ロオマと戦ったポントス(黒海南岸にあった国)の大王ミトリダテス・エウパトル(前六三年没)である。

この大王は、若いころから宮廷内の陰謀の渦中に育ったので、バビロニアスキチアの医師団を招いて、全生活を毒物研究に捧げることを思い立ち、やがて王みずからその方面の大権威となった。「ミトリダテス」といえば、今日では解毒剤を意味する普通名詞になっているほどである。

ペルガモンや小アジア地方の君主たちは、昔から毒味役の奴隷に、まず食前の飲物や料理を試食させて、奴隷がしなないと見ると、はじめて自分も口をつけるという習慣だったが、ミトリダテス王の側近にも、こんな役目の奴隷がいたにちがいない。さらに残酷な大王は、死刑囚を毒物の実験に供し、自分でも毒物を仰いで予防の練習をつんだ。そんなわけで、長いあいだに免疫性体質となっていたので、ロオマポンペイウスに敗れて城が落ち、自殺しなければならなくなったとき、服毒自殺をくわだてたが、毒がその効力を発揮せず、やむなく側近の奴隷に命じて殺させたと伝えられる。

博物学者プリニウスによると、ミトリダテス王は、「ポントス地方の鴨の血を解毒剤に混ぜていた」ということであり、その理由は、「鴨が有毒性の魚や虫を常食している」からだそうだ。これは、おそらく史上で初めての、一種の血清療法ともいうべき方法であり、学術的見地からも珍重するに足りる。

王の遺物のうちから発見された解毒剤処方の秘録は、ポンペイウスによってロオマに持ち帰られ、文法家レネウスによってラテン語に訳された。後に、これが皇帝ネロの侍医ダモクラテスその他によって、改良に改良を重ねられて中世に伝わり、あらゆる解毒剤の模範となった。

大デュマの『モンテ・クリスト伯』のなかに、「鉱物学」という一章があり、検事総長ヴィルフォール夫人が毒を少量ずつ飲む練習をするところがある。つまり、相手と一緒に服毒しても、自分だけ死なない工夫を凝らすのであるが、この挿話が、ミトリダテス王の故事に着想を得ていることはあきらかであろう。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:04:12