だんだんと武后は僧正の感化によって、仏教に熱意を示すようになった。国中に人殺しが大手をふって闊歩しているというのに、彼女は勅令を発して豚の屠殺を禁止したりしている。六八八年には、みずから「聖母神皇」と称するにいたる。

こうなると、どうしても朝を廃して、新たに国家を起すとことが必要と考えられてくるのはやむを得まい。すでに殺戮の嵐は一過し、の王族はほとんど除かれた。邪魔な高官も将軍も、すっかり片付けられてしまった。武后が夫の王室に止めの一撃を加えるべき時期は、いまや熟していた。

六九〇年九月、数百羽の赤い雀が明堂の屋根でさえずったとか、鳳凰が宮廷の西の苑に飛んできたとか、さまざまな瑞兆を告げる噂が流された。

九月九日、ついに布告が発せられた。今後朝は廃せられて、新しい国は「」と呼ばれることになる。年号は「天授《てんじゅ》」と改められる。

なぜと名づけられたかというと、かつて古代に栄えた周の国の最初の皇帝が「武王」だったからである。もちろん、武王則天武后とは何の関係もない。が、彼女はみずから武王の四十代後の後裔と称した。

九月十二日、かねて予定していた通り、武后は「神聖皇帝」という称号を名のることになった。「聖母神皇」からさらに一段昇格したわけである。名実ともに、史上最初の女独裁者である。ここにいたって彼女の最後の野心は達せられたといってよい。

武后が成功をおさめたのは、単に強靱な意志力や政治力のみによるのではなく、また彌勒の化身だとか周王室の子孫だとか称して、迷信ぶかい宗教時代の愚かな民衆をまんまとたぶらかしたことにもよる。仰々しい儀式や寺院の建立も、見方によっては、すべて民衆めあての宣伝のあらわれにすぎなかった、といえないこともない。しかし、それが予期以上の効果をあげて、ついに彼女は空前絶後の権力を掌中に握ってしまったのだ。

晩年の武后については、歴史家の意見もいろいろに分かれている。とにかく最後の十年間、彼女が殺戮をふっつりとやめ、正しい人物を重く登用して、国家をゆるぎなく統治したのは事実である。

彼女が偽造させて国中に流布させたという大雲経にしても、一部の学者の意見によれば、たしかに原典のあるものであって、決してでたらめに作り上げられた偽書ではないという。彼女の仏教に対する帰依にも、あながち政策上のものだけとはいえない面があって、あるいは武后には、仏教を基礎とした一大帝国を建設しようという真面目な気持ちがあったのではないか、とも思われる。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:05:01