カトリーヌ・ド・メディチカトリーヌ・ド・メディシス、カトリイヌ・ド・メディチ、キャサリン、Catherine de' Medici(1519-1589)

イタリアメディチ家出身のフランス王女。夫はアンリ二世フランス王ヘンリー二世)。メアリ・スチュアートは、長男フランソワ二世の嫁であり、義母の関係。

40歳で王太后となった彼女に残されたのは15歳の長男を頭に7人の子(10子を設けたが3人は夭折)であった。歴史が示すように彼女は1589年までに実に30年の間太后として、大半は摂政として生き通し、5人の息子のうち3人まで、すなわちフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世をフランスの王位に即ける一方、娘のエリザベートをスペイン国王フェリーペ2世に、マルグリットをアンリ・ド・ナヴァールに嫁がせた。彼は後にフランス国王としてブルボン王朝を開くのである。カトリーヌの配慮はそれにとどまらず、妃としてフランソワ2世にはスコットランドからのちに悲劇の女王となるメアリ・スチュアートを、シャルル9世にはドイツ皇帝の皇女エリザベットを迎えたから、いわば西ヨーロッパ全体を縁者で支配してしまった観がある。これだけを見ると、彼女の生涯は幸福そのもので前半世の不幸を補って余りがあるように思える。しかし、少し踏みこめば、我が子に次々先立たれたこと、上の2人は16歳、24歳の若さで病死していること、その間に否応無しに王権が弱体化していったことが、母后にどれほどの重圧となったか察しがつくだろう。彼女はそんな重圧に簡単に屈するにはあまりに政略に長けた女性だったがそれにしても「イエス・キリスト以降、地上でなされた最大の異様な行為(エリザベス女王)」を敢行し、フランス史に汚点を残すはめに陥ったのだった。-http://homepage1.nifty.com/~daigo/parisii-3.htm

was born to the Medici family of Florence in 1519. Her parents were Lorenzo, Duke of Urbino and Madeleine de la Tour d'Auvergne. Both of her parents died shortly after her birth leaving her as the sole heiress to all of the possessions and holdings of the Medici family. After her parents' deaths, she had no close relatives to care for her.-http://www.kings.edu/womens_history/cathymedici.html

Caterina di Lorenzo de' Medici (April 13, 1519 - January 5, 1589), (French: Catherine de Médicis) (English: Catherine de' Medici) was queen of France, wife of one Valois king and mother of three. Born in Florence, Italy, she was a daughter of Lorenzo II de' Medici and a French princess, Madeleine de la Tour d'Auvergne. Having lost both her parents at an early age, Catherine was sent to a convent to be educated; she was only fourteen when she was married (1533), at Marseilles, to the duke of Orléans, who would become King Henry II of France.-wikipedia.en

家計図:http://nekhet.ddo.jp/people/valois.html#henri2

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Last-modified: 2005-02-26 (土) 12:59:02