イタリアで毒薬と結びついた不吉な家名を高からしめたのがボルジア家のひとびとであったとすれば、一方フランスで同じような役割を演じたのは、[[カトリイヌ・ド・メディチ>カトリーヌ・ド・メディチ]](一五一九−八九)をめぐるヴァロワ王朝の宮廷であった。

「ルネサンス期の男女は動物的な激しさをもっているから、心の配慮が肉体の動きを制することなどはない。彼らは良きカトリック教徒でありながら、外出には必ず腰に匕首《あいくち》をおびる。アンリ二世と[[カトリイヌ・ド・メディチ>カトリーヌ・ド・メディチ]]の結婚は、イタリア宮廷の謀略や、罰を受けない殺人や、怪しげな決闘や、毒手袋の風習などをフランスに導入した」とアンドレ・モオロワが書いている通りだ。

フィレンツェの名門メディチ家からフランス王家に輿入してきたカトリイヌは、ひどく迷信ぶかい病的な気質の女性で、魔術師や錬金道士や占星博士や香水製造家など、いかがわしい人物を大勢身近にあつめ、後にはしばしば淫靡な黒ミサに耽ったりしていた。長いあいだ粗野な夫アンリ二世に疎んじられていたために、多分にヒステリー気味になっていたところもあるようである。(アンリ二世は十八歳も年上の寡婦ディアーヌ・ド・ポワチエを熱愛していて、いつも彼女と一緒にいた。)

側近の腰元や美童を鞭で打ってサディスティックな満足を得るような振舞も、フィレンツェで毒薬と刺客との中に育ったカトリイヌにとっては日常茶飯のことであったらしく、名高い性病理学者クラフト・エビングによれば、例の[[聖バルテルミイの大虐殺>聖バルテルミーの虐殺]]も、彼女の倒錯的な本能の満足のために実現された大々的な淫楽殺人でしかない、ということになるのである。(『フランス史』)
#ls2(毒薬の手帖/聖バルテルミイの夜)

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