中世には毒の大衆化ともいうべき現象が起った、といっているのは『妖術使論』の著者ミシュレである。ロオマ帝国の没落からビザンチン帝国の滅亡(一四五三)にいたる永い暗黒の一千年を、そう簡単に割り切ってしまうのもどうかと思われるが、とにかく文献が少ないので、正確なところは誰にも分からない。しかし、キリスト教の神学者や鬼神論者が当時の魔術師たちを神秘なヴェールで飾り立てていたとき、彼らがすでに近代医学の萌芽ともいうべき自然の秘密をひそかに手にしていたことは、疑いないことのようである。

魔術師と呼ばれるような連中は、いわば世に容れられぬ社会の余計者であったから、封建貴族や聖職者に対する嫉妬と怨みの感情にいつも責め苛まれていた。そういう連中が隠れ家を出て、マルバノホロシ(ナス科の植物)だとか、イヌホオズキソラニンを含むナス科の毒草)だとか、ヒヨスだとかの毒草を原っぱに摘みに行き、あやしげな毒薬や媚薬をつくり、復讐の念に燃えた犯罪者にそれらを売りつけたのである。ミシュレの本には、そんな物語がたくさん書いてある。

なにしろ魔術師と医者と毒薬使いの区別さえつかない時代で、女妖術使の発する悪臭は「太陽の熱を浴びて毒草の内部に育つ」(ゲルレス)嗜眠性の液汁に似ている。とまじめに信じているひとたちも当時は大勢いたのであった。

中世の妖術使たちは堕胎薬を売ったり、媚薬を与えたり、呪いの秘法を教えてやったりして、貧しい民衆の生活に親しく参与したが、往時の女毒薬使いメディアやロクスタのように、政治的な事件や王家の争いなどには関係しなかったもののごとくである。

しかし中世において、ミシュレのいわゆる「毒の大衆化」を助長したのは、なにも魔術師や妖術使ばかりではなかった。たとえば、十五世紀に書かれた聖者伝として知られるヴォラジーネのヤコブス作『黄金伝説』のなかにも、さる修道院における毒殺未遂事件に関する興味ぶかい記述がある。

六世紀の話であるが、あるイタリアの僧院で院長が死んだので、名高い聖者ベネディクトが乞われて新院長となった。が、新院長の課する戒律があまりにもきびしいので、僧院内の不平分子が結束して、院長の葡萄酒に毒薬を入れたのである。

ところが、聖者が食事の前に十字を切ると、たちまち毒薬入りの壺はまるで石をぶつけられたように粉々に砕けてしまった。そこで聖者は事情を察知し、立ちあがって、「みなの衆」と呼びかけた。

「神があなたがたを許されんことを。わたしの望む戒律はあなた方の気に食わぬようじゃ。仕方がない、あなたは方はあなた方のお好きな院長の許に行かれたがよかろう。こうなった上は、わたしはあなた方と一緒にいるわけには行かぬ…」

これは一種の奇蹟譚のたぐいであるが、こんな話を読まされると、どんなに名高い聖僧の身辺にも、なお毒殺の脅威は皆無ではなかったということが分る。単なる田舎の修道士でさえ容易に毒薬を入手することができたのだから、当時の権力者や貴族がいかに毒の操作に熟達していたかは、推して知るべしというものだ。曖昧な中世史には、謎にみちた奇怪な王たちの死が数多く記されているが、おそらく、これらの死の真因は毒薬にあったと見て差支えないのではなかろうか。

たとえば、中世ヨーロッパの民衆をふるえあがらせ、「ニーベルンゲン」史詩にも歌われて、後世にまでその恐怖の名を残したフン族の王アッティラが、若い妻に抱かれたまま腹上死したという伝説も、じつは、何物かに毒を盛られた結果であると見た方が、むしろ話の辻褄は合うのである。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:04:16