ケーサルのエジプト滞在は半年あまりで終った。後のアントニウスと違って、彼はあくまでローマ総統としての自分の使命を忘れなかった。彼は小アジアを討ち、アフリカに巣食うポンペイウスの残党を一掃した。有名な「来たり、見たり、勝てり」の手紙は、このときポントスで書かれたものである。 だが、いよいよローマに凱旋して、十年任期の独裁官となり、事実上彼一人の時代がはじまってみると、アレクサンドリアに残してきたクレオパトラのことが、そぞろに思い出されてならなかった。 クレオパトラは、ケーサルの落し胤であるケーサリオンを育てながら、再会の日の来るのを心待ちにしていた。ところへ、とうとうローマから彼女を賓客として迎える旨の報せがとどいた。彼女は、息子ケーサリオンはもちろんのこと、夫である幼帝(プトレマイオス十四世)やエジプト政府の高官たちおも従え、美々しい行列を組んでローマへ乗りこみケーサルの邸に落ちついた。 ことのき、ケーサルの妻カルプルニアも同じ邸にいて、主婦として彼女を歓迎したというのだから面白い。だが、キリストの生誕にはまだ半世紀近くの間があった当時のことで、もともと王様や武人の色好みは当り前のこととされていたのである。 カルプルニアもケーサルにとっては四度目の妻だ。前妻ポンペイアは、姦通事件を起してケーサルから離別されている。このとき法廷でケーサルは、間男のクローディウスの罪状については何も知らないと述べたので、告発者が「それならなぜ奥さんを追い出したのか」と問い糺すと、「わたしの妻たるものは嫌疑を受ける女であってはならないから」と答えたということである。 ケーサルはいまや、飛ぶ鳥をも落す勢いであった。美しいクレオパトラが側近くにいるということが、ますますその気分を煽り立てた。 そして、ついに破局がやってきた。 西暦前四四年三月十五日、ケーサルはカシウス、ブルートゥスらの手にかかって五十七歳の生涯をとじた。 ケーサルの命取りとなったのは、何よりも、王位に対する野心であった。これが共和制ローマの敵として避難攻撃の的になったのであるが、逆にクレオパトラにとっては、王位を望むケーサルこそ、おそらく理想のひとであったにちがいない。 |