「騎《おご》る平家は久しからず」といわれるように、平氏一門の上に不吉な影がさしはじめるのは、清盛後白河法皇との宿命的な対立が激しくなる頃からであろう。すでに高倉天皇は退位後まもなく死んで、徳子は二十五歳で未亡人となっていた。やがて父の清盛も、ふしぎな熱病で死んだ。諸国では、源氏がいっせいに蜂起していた。

 かくて平家の一門は、総大将宗盛以下、追われるようにして西へ落ちて行くのである。屋島の戦い一の谷の戦い、そして最後の壇の浦の戦いによって、ついに平氏の一族は、女も子供もふくめて、西の海に沈み果てて滅び去る。清盛の妻であり、建礼門院の母である呼子(二位の尼と呼ばれる)が、このとき、幼い孫(安徳天皇)を抱いて海へ飛びこんだのは、誰れでも知っていることだろう。

 むろん、建礼門院も、母と息子のあとを追って、自殺しようとしたのである。が、幸か不幸か、水に漂う彼女の長い黒髪と着物が、源氏の武士の熊手の先にひっかかり、彼女は舟の上へ引き上げられ、そのまま都へ送られることになった。

 すでに父も母も、夫も息子も奪われた二十八歳の建礼門院であった。まだ若いのに、生きていても何の望みもない、屍にひとしい身であった。都へもどると、彼女は剃髪して真如覚と号し、京都の北の草深い大原の寂光院に閉じこもり、ひたすら念仏三昧の生涯を送ることを決心した。

 かつての父の敵、後白河法皇が、この寂光院で淋しく暮らしている建礼門院のもとを訪れたエピソードは、『平家物語』の美文によって、ひろく知られている。謡曲や歌舞伎ばかりでなく、多くの小説や戯曲にも取り扱われている。このとき二人がどんな心境で、何を語り合ったかは、私たちの想像力を限りなく掻き立てるからでもあろう。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:05:24