明治時代の盗賊の女頭領。高橋お伝と並んで伝説となっている(らしい)。

女賊・お新は、土佐藩士の娘に生まれた。年若い頃から美少女として有名になる程の、抜きん出た美貌の持ち主であったらしい。明治元年、十八歳のときに大阪に出ると、そこでお新は窃盗や恐喝などの悪事を重ねていった。

 やがて、子分が大勢ついて「姐御」と呼ばれるようになり、お新は箔づけのために刺青を入れることを決意する。金太郎、弁財天、北条時政、竜に雲、大蛇退治、波や緋桜をはじめとする様々な図案が、腕・背中・腹・尻・股と、大柄なお新の全身に隙間なく彫られていく。刺青とともに、お新の悪行は全国に知れ渡り、手下の数もますます増えていった。

 お新は、美貌を武器に金持ちに近づき、宿へ連れ込むと、刺青を見せてスゴんで、有り金を巻きあげた。この被害者のなかには伊藤博文もいたという。

 しかし、そのお新も、明治七年に強盗の罪で逮捕され、終身懲役を言い渡されて入牢することになる。一度脱獄して再逮捕されるが、明治二十二年に赦免された。そしてその翌年、流行り病のために死亡する。享年四十一歳であった。

 お新の遺言によって、刺青は保存されることになる。首の付け根から両腕の肘、両足の踵まで、全身の皮膚が剥がされて、ナメシ皮にされたのだ。

 その後、この刺青は、大阪医科大学で保存され、大阪や神戸の衛生博覧会に出品された。実際に、子供の頃この刺青を見たという綿谷雪氏は、その著「近世悪女奇聞」のなかで、大の字に広げられ、肛門と局部の近辺が紡錘型の穴にえぐり取られた全身の皮膚を前にして、生きた体から剥ぎ取られるようなサディスティックな幻想にとらわれたと書いている。 
http://www.h4.dion.ne.jp/~okino/kaikyou/sei-3.htm

 刺青標本は澁澤の好むフェティッシュと考えられる。

:人物
:歴史人物


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Last-modified: 2008-03-17 (月) 00:10:05