さて、集団殺戮の時代たる二十世紀のもう一つの特徴は、技術文明が進むにつれて中毒による事故の件数がウナギ登りに上昇するという点である。一九五七年のパリにおける中毒事故の件数は一九一五件であり、同じくニューヨークにおけるそれは七〇〇〇件である。

この傷ましい進歩の代償は、要するに近代文明が生活の中にばらまいた、多くの有害な物質と関係がある。無知な子供や軽率な大人が、これらの有害な物質を吸収する危険にたえずさらされているわけだ。

都市生活に欠かせない医薬品や、催眠剤や、鎮静剤は、それらの第一の部類に属する。さらにこれに続くものに、食品の貯蔵を確実にするとか、外観をよくするとかの目的で、食品の中に添加された有毒な物質がある。人工着色剤、防腐剤などがそれだ。第三に、近頃日本でも週刊誌などに取り上げられて話題になった、台所用洗剤、酸、金属磨液などがある。

第四には、これらのなかで最も怖ろしい農薬、殺虫剤がある。実際、これによって世界各地で、すでに驚くべき数の人間が集団的に死亡しているのである。

千葉大学教授の小林龍男氏によると、「最近日本でも、害虫駆除のためにテップ(テトラエチールピロフォスファート)やパラチオンなど種々な有機燐化合物が撒布用として使われているが、これによる人体障害作用も各地で問題になっている」そうだ。そう言えば、農薬入り葡萄酒の集団殺人事件をはじめとして、テップによる殺人、自殺、事故死などのニュースが三面記事を賑わすようになっていることに、お気づきの読者もあろう。

工場の煙や残滓による大気や河川の汚染、銅や放射能元素の土壌中における蓄積も、近代生活を蝕ばむ怖ろしい作用をおよぼす。技術文明のおかげで、地球上いたるところ、土や水まで不浄になってしまって、真に自然の名に値するものが少なくなってしまったのである。

このように考えてみると、わたしたちは、一人のロクスタ、一人のブランヴィリエが生きていた過去の時代よりも、はるかに多くの種類の毒の危険にさらされながら、呪わしい近代文明の日常生活を営んでいる、ということになる。

たとえばわたしたちは、きわめて二十世紀的な毒殺犯人の例として、千九百五十九年十一月、ミュンヘンの「ヨーロッパ自由放送」の職員食堂の塩壺のなかに、点眼薬として用いられるアルカロイドの一種アトロピンを入れて、一二〇〇人の従業員を一挙に殺そうとした無名の人間の例を知っている。この事件はついに迷宮入りとなったが、いったい、ブランヴィリエやロクスタのような過去の誇り高き毒殺魔が、こんな無責任な大量殺戮を考えられたろうか?

毒殺犯の精神も、原爆やミサイルの押ボタンを押す機能的な人間の精神とひとしく、巨人的に拡大されているのであって、技術文明時代に生きる毒殺犯は無名になり、彼の責任の所在は消滅してしまう。これが二十世紀の特徴である。

ちょうど昔の精巧な手工業品が、無味乾燥な近代の大量生産品に席を譲るように、かつての誇り高き毒殺魔の熟練した仕事ぶりも、次第次第に、わたしたちの目から消えて行きつつある現状なのだ。

毒殺犯の精神が巨人的に拡大されて行くにつれて、その使用する毒薬もまた、複雑かつ機能的になって行く。コーン・アブレストの『毒物学概論』(一九五五)から、著者の分類法を次に引用してみよう。

1. ガス性の毒(一酸化炭素、刺戟性ガス、ガス毒、混成ガス)

2. 揮発性の毒(酸およびシアン化水素酸化合物、クロロフォルムとその誘導体、石炭酸硫化炭素ベンゼンニトロベンゼンアニリンアルコオルエーテルアルデヒドガソリン

3. 金属性の毒(砒素セレンアンチモン水銀蒼鉛、鉛、銅、銀、白金カドミウム亜鉛、錫、アルミニウム、鉄、マンガンクロムタリウムニッケルコバルトマグネシウムカルミウムストロンチウムバリウムラジウム

4. 酸、腐食剤、防腐剤(硫酸硝酸塩酸塩素酸塩類次亜塩素酸塩類、等。沃素臭素硼酸硼酸塩オキシフル過硫酸塩、有機塩)

5. アルカロイド、配糖体、およびアルカロイドと同じ方法により抽出された毒物

ごく最近の発見をも考慮に入れたこの分類は、まことにすぐれたものと言えよう。が、知識というものは休みなく進歩するものだから、いずれ時が経過すれば、この分類も大きく修正されることを余儀なくするだろう。


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Last-modified: 2005-05-08 (日) 23:50:53