リトレ大辞典によると、毒とは「皮膚から、呼吸から、または消化器から、動物の体内に導入され、器官の組織に対して有害な作用をおよぼし、生命をおびやかしたり、急激な死の原因となったりする物質の総称」である。

この定義には、もちろん議論の余地があるだろうし、科学的に正確なものとは言えまい。ギリシアディオスコリデスロオマプリニウス以来、各時代の毒物学者は、それぞれ自分なりに毒の定義をこころみているのである。

毒物投与の方法にも、各時代、各地方によって、さまざまな奇抜な流儀があった。指環の石のなかに粉末をかくし、油断を見すまして相手の飲物のなかに、ぱらぱらと粉末をこぼしたり、針の先に液体を付着させて、握手をするときに相手の皮膚をちくりと刺したり、敵の手がふれやすいカードや鍵に、あらかじめ毒を塗布しておいたりするといった巧緻な方法は、権謀術数を一種の芸術として見た無秩序なルネサンス時代には、ごく一般的なものであった。

手袋や、長靴や、シャツや、書物にまで毒が滲み込まされていた。カルル五世の息子オーストリアのドン・ファンは、下着に滲み込まされた毒によって死んだといわれる。

蒸気による方法も行われた。アビニョン法王クレメンス七世は、松明から発散する砒素の蒸気を吸い込んで悶死した。

ドイツ皇帝ハインリヒ七世と、ルイ十三世の説教師であったベリュル枢機卿は、ふたりとも、ミサのとき、聖体パンに滲み込まされた毒によって、絶命した。これは珍しい例に思われるかもしれないが、さにあらず、名高いボルジア家の僭主やビザンチンの女帝たちは、こんな瀆性的な手段を日常茶飯としていたのである。

毒はさらに灌腸器のなかにまで仕込まれた。ナポリ王コンラッドルイ十三世は、この方法で殺されたらしい。彼らの直腸粘膜の襞に砒素が残っていた。サドの『悪徳の栄え』にも、灌腸マニアのナポリ王の話が出てくるが、これなんか、やはり歴史のエピソオドにヒントを得たものにちがいない。

一九世紀の毒物学者フランダンが伝えているところによれば、古代エジプトの王侯(ファラオン)たちは敵への贈り物として、その体内に毒をふくんだ娘を差し向けるのだった。娘たちは永いあいだにすこしずつ毒を飲まされるので、免疫性となっているからよいが、そんなことを知らない相手がうっかり接吻でもすれば、いっぺんで死んでしまう。アレクサンドロス大王も、こんな風にして人工的に有毒性体質にされた美しい娘を、インドの太守から送られたそうだ。

生殖器も、毒薬の伝達のための通路となった。ポエニ戦争で活躍したロオマの勇将カルプルニウスが、毒を塗った指先でクリトリスを愛撫して、その妻を何人も殺した話は有名である。また、法王インノセント十世の侍医であったイタリア人パオロ・ツァキアスの『法医学の諸問題』(アヴィニョン、一六六〇)によれば、ナポリ王ラディスラスは、敵の手によって「情婦の膣内にひそかに仕込まれた毒を、男根から吸収して」あえない最期をとげたという。

ヨーロッパ宮廷の歴史をざっと見渡しただけでも、このように奇怪な、猟奇的な、秘められた毒薬の使用法があったのである。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:04:11