古代の毒薬の処方は、秘密にされているか、さもなければごく大ざっぱな曖昧な形でしか残されなかった。だから、ミトリダテス解毒剤の正確な配合を知ることは今日不可能であり、ブリタニクスを死にいたらしめた水薬の成分を知ることも不可能である。

後者については、十九世紀末のカバネス博士は、鉛と水銀の混合物であろうと推定したが、同じく十九世紀末の植物学者E・ジルベエルは、桃の花の煎薬であろうと主張した。一方、リトレ大事典には、青酸であろうと書いてある。

これらの毒物はすべて自然状態で豊富に産し、入手は容易であり、売ることも買うことも制限されてはいなかった。

たしかにギリシアでは、毒ニンジンはいわば国家の専売という形であったが、ロオマの貴婦人があやしげな薬局でひそかに毒薬の原料を買うことには、何の遠慮もいらず、少なくとも法律的な顧慮は不要であった。それというのも、法医学というものが存在しなかったので、解剖はぜんぜん行われず、むしろ被害者の家族は、屍体に不気味な鉛色の斑点でも出てくると、大急ぎで遺骸を消却することを考えた。

古代に知られた解毒の方法も、ごく最近まで行われていた。金持は宝石を粉にして良質の葡萄酒に混ぜたり、ミトリダテスの故智にならって、ポントス地方の鴨の血を飲んだりした。もしそんな贅沢が許されなければ、ディオスコリデスや、アエティウス(五世紀ギリシアの医師)や、ニカンドロスの意見にしたがって、入浴後に蜂蜜酒を飲むことで満足した。

いわゆるテリアカ(解毒膏)の製法も、どちらかと言えば簡単なものであった。毒蛇の頭と尾を切り捨てて、その肉を煮、パン屑やいろんな香料をこれに混ぜて、粉末にし、クレタ島産の酒に溶かし、さらにこれをアッティカ産の蜂蜜と混ぜ合わせればよいのである。

ネロの侍医であったギリシア人のアンドロマケーが発明したこの特効薬は、皇妃アグリッピナに愛用され、またガレヌスが皇帝マルクス・アウレリウスのために作ってやったとも言われている。

毒に対して有効であるばかりか、性的不能やペストをもふくめた万病に対して、効き目があるとされ、中世のあいだ大いに流行し、さらに十九世紀の中頃まで田舎で用いられていた。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:04:11