この名高い聖バルテルミーの虐殺を実行させたのが、フランス王アンリ二世の王妃として、イタリアメディチ家から輿入してきたカトリーヌである。

ルネッサンス期の男女は動物的なはげしさをもっているから、心の配慮が肉体の動きを制することなどは決してない。彼らは良きカトリック教徒でありながら、外出には必ず腰に匕首をおびる。アンリ二世カトリーヌ・ド・メディチの結婚は、イタリア宮廷の謀略や、罰を受けない殺人や、あやしげな決闘や、毒手袋の風習などをフランスに導入した。そしてイタリアの傭兵隊長流とフランスの騎士道との混合が、そこに奇妙な人間たちを作り出した」

アンドレ・モォロワが書いているが―たしかに、王妃カトリーヌを中心としてルーヴル宮に君臨していた、あの華麗なヴァロワ王朝末期の君主たちの宮廷には、野菜と洗練との奇妙に入り混った、魔術的な雰囲気がみちみちていたように思われる。

フィレンツェの名門メディチ家からフランス王家に輿入したカトリーヌは、当時の史家の説によると、ひどく迷信ぶかい病的な気質の女性で、魔術師や、錬金道士や、占星博士や香水製造家など、いかがわしい人物を大勢身近にあつめ、後にはしばしば淫靡な黒ミサにもふけったという。

また結婚後、最初の十年間子供がなかったので、占星学者や魔術師に頼んで、子供のできる魔法の水薬常用したともいわれている。そのためかどうか、後には五人の息子や娘を次々に生んだ。

彼女がいつも護符を肌身離さず持っていたという逸話も、よく知られている。それは金属のメダルで、表面には裸体のウェヌス像を中心に、あやしげなカバラ(ユダヤ神秘学)の記号がいっぱいに彫りこまれていた。

長いあいだ粗野な夫アンリ二世に疎んじられていたので、彼女には、多分にヒステリー気味になっていたところもあるようである。

アンリ二世は十八歳も年上の寡婦ディアーヌ・ド・ポワチエヴァランチノワ女公と呼ばれる)を熱愛していて、いつも彼女と一緒に旅に出たり、いろいろな贈物をしたり、熱烈な恋文を送ったりしていた。この王さまの物語めいた執心は、後に述べるように、ふとした災難で王さまが死ぬまで、二十三年間も続いた。

ディアーヌとは、ローマ神話の月の女神である。当時の年代記作者ブラントームの記述によると、実際このディアーヌは、月の女神のように冷静で野心的で、絶世の美人だったそうである。

一方、王妃カトリーヌは、小肥りの醜い女で、鼻が大きく、唇は薄く、船暈いにかかった人のような締まりのない口元をしていた。眼を半開きにして、しょっちゅう欠伸をしている。これでは夫に疎んじられるのも無理はないが、彼女自身は不屈な忍耐心で、夫の放蕩を見て見ぬふりをしていた。

ラファイエット夫人の典雅な恋愛小説『クレーヴの奥方』の冒頭に、

「王妃はもう初々しい若さを過ぎてはいるが、やはり美しい方だった。」

と書かれているけれども、これは小説作者の粉飾というものであろう。実際の王妃カトリーヌは、当時の肖像画を見ても、あまり美しい方だとは義理にもいえないのである。

「王妃の男勝りの気性では、国王の配属として崇められる地位を楽しんでおいでのようだった。ヴァランチノワ女公を陛下が御寵愛になることも一向気になさらない様子で、嫉妬の色を少しもお見せにならない。しかしこの方はいつも本心を奥深く包んでいる性質だから、ほんとうの御気持まで察しるのは容易なことではなかった。」(『クレーヴの奥方』)

実のところ、カトリーヌは極端に内向的な性質で、嫉妬や屈辱の情をこらえ、ぎりぎりまで鬱積させていたのだった。だから、それがたまたま堰を切って爆発すると、側近の腰元や侍童を鞭で打つようなサディスティックな行為に出たり、また夫の死後政治に乗り出してからも、毒殺や暗殺を日常茶飯とするような、権謀術数のうちに生きる陰険な女となってゆくのである。

名高い性病理学者クラフト・エビングの説によれば、

例の聖バルテルミーの大虐殺も、彼女の倒錯的な本能の満足のために実現された大々的な淫楽殺人でしかない、

ということになる。


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Last-modified: Sat, 26 Feb 2005 13:05:13 JST (5134d)