そのとき二人の心をよぎったものは?かつての敵、後白河法皇寂光院に迎えた

 源氏平家が覇を争っていた動乱の百年間における、源氏を代表する女性が北条政子静御前だったとすれば、平家を代表する女性は、何といっても建礼門院平徳子であろう。

 その前半生の華やかな宮廷生活と、平氏が滅亡してからの、後半生の淋しい隠遁生活とが際立って対照的であるという点からも、この女性は、悲劇のヒロインと呼ばれるにふさわしい女性なのである。平徳子清盛の娘である。「平氏にあらざるは人にあらず」といわれたように、当時、権勢をきわめていた平氏一門の長、父の清盛の意思で、徳子は十五歳で、高倉天皇の女御《にようご》となり、翌年、中宮《ちゆうぐう》となった。

 ここでちょっと説明しておくと、そのころ、天皇の妻妾は一人や二人でなく、皇后、中宮、女御、更衣《こうい》などという等級があって、定員三人の女御のなかから中宮に昇進する者があり、皇后になるのは、さらに年をとってからという定まりになっていたのである。清盛は、藤原氏の例にならって、自分の娘を天皇の妻妾として、その腹に男子を生ませ、自分は外戚になって勢力をのばそうと考えたのである。

 しかし、清盛の期待に反して、十二歳の高倉天皇と十五歳の徳子のあいだに、男の子はなかなか生まれなかった。まだ子供みたいな夫婦なので、それも無理はなかったろう。だから入内《じゅだい》して七年目に、ようやく徳子が男の子を生んだとき、祖父の清盛の喜びようは、大へんなものだったといわれている。この子供が、のちに平氏滅亡とともに瀬戸内海に沈んだ安徳天皇である。

 当時はまだ、藤原時代につづく宮廷文化の時代だった。平家の公達《きんだち》は、歌をよんだり恋をしたり、わが世の春を謳歌していた。徳子に仕えた数十人の女房のうち、才女として知られる右京大夫《うきようだいぷ》は、名高い『建礼門院右京大夫集』という歌集を残している。いわば王朝末期の最後の女流歌人ともいうべき女性で、彼女の恋人は、平重盛の二男の資盛《すけもり》であった。この資盛も、やがて西の海で戦死するのである。


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Last-modified: 2009-03-25 (水) 23:01:26