細川忠興(ほそかわただおき、永禄6年11月13日(1563年11月28日) - 正保2年12月2日(1646年1月18日))は、安土桃山時代〜江戸時代の大名。細川幽斎の嫡男。妻は明智光秀の娘の細川ガラシャ。-wikipedia.jp

【足利家の家臣】細川藤孝の長男。幼名・熊千代。幼い頃に一時的に奥州細川家の養子となったが、教育は実家で行われた。1577年2月の紀伊雑賀衆攻めで初陣し、同年10月の大和片岡城攻めでは織田信長から感状を受けるほどの活躍をした。
 1578年に織田信忠から一字を与えられて忠興と名乗った。またその年に明智光秀の娘・玉(ガラシャ)を妻とした。1579年7月に光秀・藤孝と共に丹波攻略に参加して、翌年の1580年には細川親子で丹後を攻めて一色氏を降伏させ、信長から丹後一国を賜った。

光秀を見捨てる】1582年、本能寺の変が起こった時、藤孝は信長を討った光秀から誘われるがこれを断り、剃髪して家督を忠興に譲った。この時に玉と離縁し山奥に押し込めて光秀に協力しない意志を鮮明にした。そして豊臣秀吉に協力し、そのおかげで秀吉から丹後内の光秀領を譲られたばかりか、一度離縁した玉と復縁をも認められた。
 その後、忠興は1583年の賤ケ岳の戦いで越前に攻め入り柴田軍を攪乱させ、1584年の小牧・長久手の戦いでは織田信雄軍を撃退するなど秀吉のために活躍し、1585年には羽柴姓を賜った(翌年には豊臣姓も賜っている))。

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Last-modified: 2006-11-12 (日) 01:30:08