1440〜96(永享12〜明応5)日野政光の娘で室町8代将軍足利義政の正室,9代将軍義尚の母。法号を妙善院。1455年(康正1),兄勝光のはからいで16歳にて義政の正室となり,女子二人を生むが男子はなく,そのため義政は弟義視をもって後継者と定めたが,その直後,富子は義尚を生み,彼の将軍就任を画して山名宗全を頼ったため,幕閣は義視派と義尚派に分かれて応仁の乱勃発の直接的契機となった。夫義政の現実逃避的生活とは対照的に活発な行動力によって兄勝光とともに政治に深く関与し,なかでも銭貨の流通に鋭い目をむけて,利殖に才を示した。京都諸口に新関を設けた関銭の徴収,米相場への介入,武将への融資などがそれで,「有徳の仁」などと呼ばれた。しかし義政との不和はよく知られ,また子義尚には先立たれるなど家庭的には恵まれなかった。なお没後,彼女の遺体は葬儀費調達の理由をもって20余日,室内に放置されたという。京都宝鏡寺に木像がある。
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P145C100.HTM

日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町幕府8代将軍足利義政の正室。9代将軍足利義尚の母。父は蔵人右少弁・贈内大臣の日野政光、母は従三位の北小路禅尼。

1455年8月27日、義政の正室となり、1459年1月9日には第一子が生まれるが、その日のうちに夭折。それを義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖の島に流罪とし(本人は途中で自刃)、更に義政の側室四人を追放する。

政治に興味を示さない夫に代わって幕政に深くかかわって影響力を行使した。将軍職継承をめぐって足利義視と対立したことが応仁の乱の一因となった。

京都七つ口に関所を作って関銭を徴集し、賄賂を受け取り高利貸とも結託し巨万の富を築いた悪女と評されることが多い。いっぽう、彼女の財力によって室町幕府が運営されていたことも否めない。

1489年に義尚が没した後、幕政への影響力を失った。

1493年に細川政元と共に十代将軍足利義材を廃し、義政の甥で堀越公方足利政知の子足利義澄を将軍に就ける。

1496年、没。享年57。-[[wikipedia.jp>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%AD%90]]

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