ここで、青酸カリなどを含むシアン化物について、一言しておこう。これについては、まだ触れる機会がなかったから。

古代のエジプト人は、桃の花から抽出した一種の青酸を用いて、君主を毒殺することを常習としていたが、この昔の青酸カリと、今日の化学的に純粋なシアン化カリウムとは、その毒作用の点でも大いに異っていたと思われる。

化学的に純粋であれば、あらゆるシアン化物は、ほんの微量を口にしただけでも、立ちどころに人を殺すことが可能なのである。近代の自殺者や殺人犯が、この猛毒薬を偏愛するのも理由のないことではない。

致死量は、シアン化水素(青酸)では五〇〜一〇〇ミリグラム、シアン化ナトリウムでは一五〇ミリグラム、シアン化カリ(青酸カリ)では二〇〇ミリグラムであって、死亡は服毒後五分以内に確実に起る。シアン化水素の空気における最高許容濃度は一〇ppmである。
致死量は、シアン化水素(青酸)では五〇〜一〇〇ミリグラム、シアン化ナトリウムでは一五〇ミリグラム、[[シアン化カリ>シアン化カリウム]](青酸カリ)では二〇〇ミリグラムであって、死亡は服毒後五分以内に確実に起る。シアン化水素の空気における最高許容濃度は一〇ppmである。

オルフィラの時代には、まだシアン化物を純粋に取り出すことが困難だったから、危険度もそれだけ低かった。ラスプーチンの殺害者も、この毒薬の不完全な見本を所持していたのではあるまいか。とにかく彼らは、毒でラスプーチンを殺すことができずに、銀の枝つき燭台で彼を殴り殺さなければならなかったのだ。

シアン化物の使用には微妙な手ぎわを要する、と言われている。毒殺者がこれを相手に嚥ませるには、微妙な情況の一致を必要とする。青酸には巴旦杏のような特有な臭気があり、口にすれば粘膜に強烈な刺戟を感ずるからだ。その点で、帝銀事件の犯人のやり方は、毒殺の歴史においても類例を見ない巧妙な手口であった。

帝銀事件に使用された毒物は、被害者の胃の内容物の分析によって、青酸カリ、または青酸ナトリウムに間違いないとされている。もっとも、松本清張氏その他の主張によれば、それは旧陸軍研究所において製造されていた。特殊な即効性の毒薬アセトンシアンヒドリンにきわめて類似する。

無名の犯人(あえて平沢貞通と断定することを避ける)は、東京都防疫官の名刺を出して、閉店後の銀行に入り、毒薬を集団赤痢の予防薬だといつわって、銀行員十六人に嚥ませた。

その際、犯人は「この薬は歯にふれると琺瑯質を損傷するから、わたしがその飲み方を教えるから、わたしがやるように飲んで下さい」と言って、舌を出せるだけ出して、その中程へ巻くようにして飲んで見せた。

店員も全員それを見習って飲んだが、薬は非常に刺戟が強く、ちょうど酒の飲めぬ人が強い酒を飲んだように、胸が焼けるように苦しくなってきた。「ガソリン臭くて舌がぴりぴりした」と言っている生き残りの証人もあり、「薄黄色でアンモニアに近い臭いと、苦いような味がした」と言っている者もある。

一九五四年に、同じく青酸入り菓子を食わされて危うく死にそうになったベルギーのエッゲルモント事件の被害者も、似たようなことを報告している。

すなわち、「いやな味と石油の臭いがして胸がむかむかした。顎の筋肉がたちまち硬ばり、言うことをきかなくなった。やむを得ず前に屈んで、チョコレートを口から吐き出した」と。

シアン化物の中毒は一般に助からないものと相場がきまっているから、これらの生き残りの証言はきわめて貴重である。

もっとも、シアン化物の毒作用は個人の体質によって変化する。青酸カリ自殺が必らず成功するとは限らない。

ラスプーチンはかなりの量を飲まされたにもかかわらず、死に切れなかったが、腹腔内のガラスのカプセルに青酸カリを仕込んでおいた、旧ナチスの戦犯ヘルマン・ゲーリングのごときは、処刑直前、拘置所内で、見事に自殺をとげることができた。

これに反して、妻の歯ぶらしに破傷風菌を付着させて、彼女を殺したという嫌疑を受けた、ドイツの細菌学者ヘルマン・ヴォラッツは、一九五九年、やはり青酸カリ自殺を試みたが、成功しなかった。

最後に、シアン化物の取扱いがいかに面倒なものであるかという点について、実例をあげて記しておこう。一九六〇年一月、イギリスのある村で、疾走中のトラックから、総計一三六キロのシアン化物の詰まった三つの函が転がり落ちた。

ただちに、緊急態勢が布かれ、警官が現地に赴いた。函の一つは、蓋があいていた。内容は、百万人の人間をも殺せるほどの量である!

そこで警官はやむを得ず、莫大な量の水を流してシアン化物の濃度を薄め、次に、これに中和剤を注がねばならなかった。幸いにして犠牲者はひとりも出なかったという話である。

#ls2(毒薬の手帖/集団殺戮の時代)

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