今や、メアリ・スチュアートの生涯のうちでも最も暗い、陰惨な一章がはじまる。恋に目がくらんだ彼女は、あのマクベス夫人とそっくりの行動をするようになる。犯罪への道、転落への第一歩は、かくて踏み出された。

一五六七年一月二十二日、ここ数週間、ダーンリと同席することを避けていた女王は、突然グラスゴーへ赴く。表向きは病気の夫を見舞うためであるが、本当は、ボスウェルの命令でエディンバラの町へ彼をつれもどすよう誘うためだった。エディンバラでは、死の匕首を握ったボスウェルが、すでにいらいらしながら獲物を待ち受けている。

何も知らない病気の夫は、干し草馬車に乗せられて、エディンバラ市の城壁の外にある、荒れはてたみずぼらしい家に、運ばれる。夜の二時、突如として物すごい大爆発が起る。爆破された家の庭に、黒焦げになった国王の死体が見つかる。下手人は誰か?

疑問の余地はない。すべては筋書通りである。市民たちは、真実を見抜けないほど馬鹿ではない。町の広場や王宮の門には、犯人を告発するビラがでかでかと張り出される。貴族たちは、疑りぶかい沈黙のうちに閉じこもる。

しかしメアリ・スチュアートは、陰謀を捜査し犯罪者を罰するための、いかなる処置を執るでもない。自分から嫌疑をそらすために、苦しんでいるふりをするでもない。フランスのカトリーヌ・ド・メディチも、イングランドの[[エリザベス女王>エリザベス一世]]も、が犯罪者をしかるべく処罰することを強く要望しているのに、彼女はただ茫然と、気抜けしたように、事態を傍観しているのみである。おそろしい精神の緊張のあとの、一種の虚脱状態が彼女を襲ったのだ。「これほどの短期間に、さして重い病気もしないのに、女王ほど面変りして女性を今までに見たことがありません」と当時の証人が書いている。

ボスウェルとの結婚式が挙行されたのは、この忌まわしい殺害事件からわずかに三ヶ月の後である。これこそ全世界に向って手袋をたたきつけたようなものだ。神をも恐れぬ恥知らずの行為だ。彼女はあらゆる国々の同情を失い、すべての者に対して完全に孤立する。彼女の美しい顔には、以後、目に見えない夫殺し[#傍点]の烙印が焼きつけられる。

いったい、なぜ彼女はこんなに結婚を急いだのか。お腹のなかに、ボスウェルとの道ならぬ情熱の果実が育っていたのである。子供はその後、彼女が幽閉されていた[[ロッチレヴェンの城>ロッチレヴェン城]]で流産したらしい。

    あの方のために、わたしはそれ以来、名誉をあきらめました
    あの方のために、わたしは身内と友達とを捨てました…

この詩句が、ついに怖ろしいほどの真実となったのである。

やがて国内の貴族たちが結束して叛乱を起すと、ボスウェルと女王は、危険を察知してホルリード城から遁走する。は捕えられて、ロッチレヴェン城に監禁される。

粗末な百姓女の服装をした女王が、兵士たちに取り巻かれると、たちまち民衆の憎悪の声が四方から響いてくる。「売女を焼き殺せ!亭主殺しを焼き殺せ!」と。自分の国のなかで捕虜になった女王とは、何という奇妙な見世物であろう。

ボスウェルの末路は、さらに彼女以上に悲惨である。女王メアリ・スチュアートは、ただ犯罪人ボスウェルと手を切り王位を退くことを要求する民衆の意志に、みずから承認をあたえさえすれば、後半生のきびしい運命に堪えなくても済んだのである。が、彼女はそれをしなかった。今となっては、自分の生命よりも女王としての誇りのほうが、彼女には大事だったのだ。

ボスウェルの末路は、さらに彼女以上に悲惨である。暴徒に追われ、陸を越え海を越えて、彼は逃げまわる。何度も兵を集めて反撃に転じようとするが、成功しない。オークニ群島にわたり、海賊の頭目になるが、嵐に襲われ、ノルウェーの海岸に漂流し、ついにデンマークの海軍につかまる。デンマーク王は、この危険人物を牢にぶちこむ。

鎖につながれたまま、暗黒の壁の内部で、彼はおそるべき孤独と無為のうちに、生きながらその逞ましい生命を腐敗させてゆく。そして最後に、この一生の風雲児は、狂気のうちにみじめな最期をとげたと伝えられる。

#ls2(世界悪女物語/メアリ・スチュアート)

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