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では、この推理小説の鬼才によって現代に蘇生せしめられた稀代の女毒殺魔、ブランヴィリエ侯爵夫人の素姓と、その犯罪と、その最期とをややわしく述べてみよう。

彼女は幼名をマリー・マドレーヌ・ドーブレといい、一六三〇年七月二十二日、身分の高いパリの司法官の娘として生まれた。六人姉弟の長女である。

育った家庭については、あまり知られていないが、[[父親>M. de Dreux d'Aubray]]はいくつもの顕職を兼ねていて、多忙の人だったらしい。彼女は若いころから美貌と才気を謳われたが、宗教的心情にとぼしく、浮気で、すぐ物事に熱中する性質だった。その上、一種のニムフォマニア(色情狂)の傾向があって、二十歳にも達しないうちに、弟たちに次々に身をまかせたという。これは、後に彼女の告白録から知られた事実である。

二十一歳のとき、アントワヌ・ゴブラン・ド・ブランヴィリエなる侯爵と結婚したが、この男は陸軍の遊び人で、しかも、あまり頭のよくないお人好しだった。

結婚式当時、彼女は栗色の髪に碧い眼をしていて、おどろくほど美しく、妖艶であったといわれる。

良人は賭け事が好きで、莫大な妻の持参金をたちまち使い果たしてしまった。当時の貴族社会の御多分にもれず、この良人には、賭け事や女遊びの悪い仲間がたくさんいて、いろんな友人を自宅に連れてきた。その中に、ゴーダン・ド・サント・クロワという騎兵隊の土官がいたが、この堕落した男が、ブランヴィリエ夫人の一生を決定してしまうほど、後々まで大きな影響力を彼女におよばしたのである。

ゴーダンはたしかに頭がよく、魅力的な男であったらしい。良人に顧みられなかったブランヴィリエ夫人すぐに彼の魅力の虜になってしまった。二人は大っぴらに、社交界や劇場に姿をあらわすようになり、やがて世間の噂のものぼるようになった。

良人は自分の事情に忙しく、夫人の御乱行のことなど気にもとめなかったが、道心堅固な彼女の父親は、二人の関係に眉をひそめるようになった。家庭のふしだらは許しておけない。そこで、司法官としての自分の権限を利用して、王の署名のある勅命拘引状を発し、不届きな娘の恋人ゴーダンをバスチイユの牢獄に六週間ぶちこんでしまった。

ところで、ゴーダンはバスチイユの獄中で、世界を股にかけて悪事をはたらいている奇怪な男と識り合った。もとスウェーデンのクリスチナ女王に仕えていたエグジリというイタリア人で、かつて法王インノセント十世の時に百五十人以上の人間を毒殺したこともある札つきの男。この時も、毒薬製造の嫌疑を受けて下獄しているのであった。

ゴーダンは、この毒物学者エグジリの熱心な弟子となり、牢獄を出てからも、彼を自宅に招いて毒薬調合の秘法をいろいろ教わった。復讐心の強い彼は、自分を獄にぶちこんだブランヴィリエ夫人の父親を殺してやろうと思い立ったのである。

恋人同士は気脈を通じて、おそろしい毒薬の実験にふけり出した。男にすっかりのぼせあがっていた侯爵夫人も、父親の仕打ちを恨み、実の父親を早く殺して、遺産を自分の手に入れたいと思うようになった。

当時、フランスでいちばん有名な、激烈な効果を有する毒薬は「遺産相続の粉」と呼ばれていた。これを用いれば、遺産が自分の手にころがり込んでくるというわけである。エグジリから手ほどきを受けたゴーダンは、すでに師匠を凌駕する腕前になっていて、この「遺産相続の粉」の調合にもすっかり熟達していた。

しかし、事を行なう前にまず実験をしてみなければならない。ある日、ブランヴィリエ夫人はお菓子や果物をもって、パリ市立慈善病院に姿をあらわし、患者たちにそれらを与えたのである。目的は、解剖の際に毒が発見されるか否かを試すためであった。これは永いこと露見せず、夫人は病院では、信心と慈善の鑑と謳われた。

毒薬実験の対象になったのは病人ばかりではない。夫人の家の小間使も、すぐりの実のシロップを与えられて、健康を害し、廃人同様の悲惨な身になってしまった

こうして、いくつかの実験が効を奏すると、次には父親の命がねらわれた。父親はオッフェモンの領地に娘とともに滞在中、原因不明の病気になり、パリに帰ってから八ヶ月間苦しみぬいたあげく、ついに死んだ。最後まで娘が病床につきっきりで、献身的(?)な看病をした。じつは、毎日少しずつ毒を盛っていたのである!
#ls2(世界悪女物語/ブランヴィリエ侯爵夫人)

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