[[武后>則天武后]]の迷信ぶかさも有名なものである。長安の宮殿に幽霊が出るというので、怖ろしくなって洛陽《らくよう》へ旅立ったり、わざわざ新しい宮殿を造営して、そこに移り住んだりした。それでも幽霊が退散しないので、妖術使を招き、道教の護符を燃やしたり呪文を唱えたりして、悪鬼を祓い清めようともした。

文字には魔力があると信じていたので、縁起をかついで息子の名前を変えたり、政府諸官庁の名称を改めたり、年号を変えたりすることもしばしばだった。ときには一年のあいだに年号が二度も変っている。

派手な行列や華麗な儀式を主宰して、自分の権威を内外に誇示するのが大好きだった[[武后>則天武后]]は、かつて[[秦]]《しん》の始皇帝《しこうてい》や[[漢]]の武帝がやったように、山東の泰山《たいざん》の頂上で天下の大平を神々に報告し、その永続を祈願する祭りの「封禅《ほうぜん》」を行った。

この儀式には、首都から山東まで延々長蛇の列が繰り出され、その行列の通る地方は、半年ほど大混乱に陥ってしまう。外国の王族や使臣も行列に加わって、旗をひるがえし、日傘をかざして、きらびやかに行進するのである。記録によると、行列は十五里の長きにおよび、沿道は色とりどりの車や馬や駱駝や、蒙古毛氈の天幕などで[# 溢の旧字]れんばかりであったという。

―鉦《かね》と鐘磬《しょうけい》の音で式がはじまる。壇の下に火が焚かれる。煙が立ちのぼって霊を迎えるのだ。西域渡来の音楽を用いて、合奏団と唱歌隊が祈祷歌を奏する。礼拝は三度行われ、最初が皇帝、ついで皇后の順である。

[[武后>則天武后]]は十二本の真珠の紐が顔の前に垂れている冠をいただき、鳳凰の縫いとりのある衣をまとい、腰元につき添われて、しずしずと階段をのぼった。彼女の両側には、華やかな刺繍のある、幅ひろい絹の帯をたらした竿を捧げもつ侍女たちがいて、皇后のすがたを隠している。

しかし、彼女がいかに満足に顔を輝かせているかは、そのすがたを見ないでも、並みいる観衆によく分った。じつは彼女は、この至高の一瞬のために生きてきたのだといってもよかったからだ。封禅の儀式に女性が登場したのは、彼女が初めてである。いまや彼女は得意の絶頂である。

ところで一方、高宗は、このような気骨の折れる儀式やら旅行やらのために、次第に健康を害し、ひどい神経痛や痺れや息切れに悩まされるようになった。

皇帝の健康が憂慮されてくると、[[武后>則天武后]]はかわって政務を行い、六七四年、新治世がはじまると称して年号を上元《じょうげん》と改元し、みずから「天后」と名乗った。事実上の独裁者になったわけである。天后とは「天皇」の皇后を意味する、半ば神格化された称号である。

高宗が長い病の末に死んだのは六八三年、五十五歳の時であった。[[武后>則天武后]]はようやく六十歳になっていた。しかし、驚くべき精力家であった彼女の人生には、まだまだ先があった。

#ls2(世界悪女物語/則天武后)

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