詩人ジャン・コクトーがマリー・アントワネットの肖像を、短い言葉で的確に、次のように描き出している。

>「マリー・アントワネットについて考えるとき、首を斬られるということは、極端な悲劇的な意味をおびる。幸運な時期における彼女の尊大な軽薄さは、事情がやむをえなくなったとき、不幸を前にした崇高な美しさと変る。儀礼の化粧をほどこした心ほど、品の悪いものはない。舞台が変り、喜劇が悲劇になったとき、宮廷の虚飾によって窒息させられた魂ほど、気高いものはない。」

>「かつねの彼女の歯の浮くような名門意識が、フーキエ・タンヴィルの裁判所では、そのまま彼女の役割に天才の輝きを添える。彼女の白くなった捲毛には、もう尊大な風は見られない。一人の侮辱された母親が、反抗を試みるだけである。彼女の言葉は、もう自尊心によってゆがめられることがない。口笛で弥次られ通しのこの女優は、まことに偉大な悲劇役者となって、見物席の観衆を感動させるのだ。」

>「[[女王の最良の肖像画>http://wiki.draconia.jp/images/10-marie.jpg]]は、むろん、[[ダヴィッド>ルイ・ダヴィッド]]によって描かれた、荷車のなかに座って刑場に赴く彼女のそれである。彼女はすでに死んでいる。サン・キュロットたちが断頭台の前につれて行ったのは、彼女ではない別の女である。羽飾りや、ビロードや、繻子や、提灯などのいっぱい入った箱の下に身をかくし、自分自身を使い果たしてしまった別の女である。」

たしかに[[コクトー>ジャン・コクトー]]のいう通り、幸運な時期における誇り高い「悪女」が、心ならずも歴史の大動乱に捲きこまれ、思ってもみなかった数々の試練を受けることによって、悲劇の女主人公に転身してゆく過程は、きわめて感動的である。平凡な人間が、運命のふるう鞭に叩かれ、歴史の悪意に翻弄されて、その運命にふさわしい大きさにまで成長してゆく過程を、このマリー・アントワネット劇ほど、みごとに示してくれるものはないであろう。

#ls2(世界悪女物語/マリー・アントワネット)

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