二人が結婚したのは、一九三〇年十二月であった。この年は、選挙で[[ナチ>ナチス]]の議席が十二から百七にはねあがり、にわかにヒトラーが全世界から注目され出した年である。

結婚式は北ドイツのメクレンブルグにある、マグダの前夫クヮントの邸で行われた。この邸は彼女が自由に使う権限を得ていたもので、彼女はたびたびここを[[ナチ>ナチス]]の会合場所に利用していたのである。式にはゲッベルスの立会人として、ヒトラーも親しく参列した。鈎十字の旗の下で、新夫婦は型通りの愛の誓いを交わした。

結婚以来、ゲッベルスの党内の地位はいよいよ固まった。マグダの広い家は快適な雰囲気だったから、ヒトラーをはじめとして、党幹部が毎晩のようにくつろぎに現われ、サロンで音楽を聴いたり、雑談に花を咲かせたりすることもしばしばだった。美しいホステスがいつも愛想よく彼らを迎えた。一九三二年に暗殺未遂事件が起ってからは、ヒトラーはベルリン滞在中は必ずマグダの家で、彼女の手ずから作った料理を食べるようになった。ヒトラーの独りよがりの長談議は有名で、彼がお茶の席で話をはじめると、みな睡気を誘われ、あくびを噛み殺すのに苦労したといわれる。

結婚後十ヶ月たって、最初の娘ヘルガが誕生した。それから次々に四人の娘と一人の息子が生まれたが、前夫クヮントとのあいだの子供をもふくめて、全部で七人の子供たちをゲッベルスは一様に可愛がったらしい。

一九三三年、ヒトラーがついに政権を手にすると、ゲッベルスは新設された「国民啓蒙宣伝省」の大臣として、閣僚の席に加えられた。大臣官邸はウィルヘルム広場のレオポルド宮と決められたが、彼はここに住むことを好まず、ベルリンの屋敷町の奥にひっそりと立っている宏壮な古い邸宅を手に入れて、ここを自分の住居とした。その広い庭園には、鬱蒼と茂った森や池があって、とても大都会のまんなかとは信じられないような趣きがあった。

室内の装飾や家具の購入に采配をふるったのは、大臣夫人たるマグダである。ゲッベルスの主張で、とくに邸内に広い試写室が設けられた。美術館からゴブラン織の壁掛や、[[ルネッサンス時代>ルネサンス]]の名画や、その他の美術品などをごっそり運ばせたのもゲッベルスである。これにはマグダも驚いた。そんなことをしてもよいのだろうか?しかし、当時の[[ナチ>ナチス]]の高官たちは、ゲーリングもヘスもヒムラーも、みな同じような勝手な真似をしていたのである。公私混同を何とも思っていなかったのである。

ゲッベルスは有力な宣伝手段として、とくに映画に力を入れた。若いころ小説やシナリオを書いたこともある彼は、いつも芸術に理解のあるポーズを示していた。人気のある映画スターや監督が、よく彼の邸に招待される。『民族の祭典』を撮った有名な女流監督レニ・リーフェンシュタールをはじめとして、ウィリー・フリッチュ、リル・ダゴファ、レナーテ・ミュラーなどの面々が集まった。

ドイツで禁止された外国映画を、とくにゲッベルス邸の夜会で観覧に供することもあった。あるとき、『わたしはナチのスパイだった』というアメリカ映画の試写が行われた。その映画のなかに、ゲッベルスに扮した役者が出てきたのである。世界の平和を乱す戦争挑発者として、映画のなかのゲッベルスはかなり戯画化されていた。鈎十字の旗やヒトラーの胸像に取り巻かれて、彼は大きな事務室に威張って座っていた。―やがて映画が終ると、ゲッベルスはにやりと笑って、「たった一つ、気に入らないところがあるね」といった、「アメリカでは、わたしはあんなに趣味のわるい男と思われているのかしら。わたしの事務室には、鈎十字も総統の胸像もありやしないよ!」

#ls2(世界悪女物語/マグダ・ゲッベルス)

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