この事件については、まだまだ書くことがたくさんあるけれども、いったい、切り裂きジャックの正体は何者か、という問題に話をしぼってみよう。当時から現代にいたるまで、これほど多くの仮説や臆説の立てられた問題も、めずらしいのである。
 いちばん傑作なのは、医者で毒殺犯だったトマス・ネイル・クリームを犯人とする説であろう。
 彼は処刑台の上で、「おれがジャック・ザ……」と言いかけた瞬間、ばたんと台が落ちて死んでしまった。しかしこの説の弱点は、ホワイトチャペルの犯罪当時、彼がアメリカの刑務所にいたという事実である。これでは話にならない。犯罪者のなかには、自分の犯した罪をできるだけ大きく吹聴したいという欲望をもった者がおり、クリームも、この型に属する人間だったのだろう。犯人はポルトガルの船員ではないか、という説もあり、遠洋漁業の漁船の乗組員ではないか、という説もある。魚の腹を裂くことに熟練した者ならば、女の内臓をえぐり出すことも容易だろう、というわけである。
 ウィリアム・スチュアートという広告絵描きは、切り裂きジャックの正体は女であり、産婆ではなかったか、という珍妙な説を提出している。淫売婦たちに堕胎の世話をしてやる産婆

トップ   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS