ブリュッセルでは、黄金ダイヤモンド真珠水銀を製造し、麻の布を絹に変えたという。子供を催眠術で眠らせ、夢遊病者のように喋らせたともいう。フランスのクールランド公爵は、彼の手にかかって一種の全身硬直症《カタレプシー》の状態に落ちこんだ。ペテルブルグでは、彼はストロゴノフ男爵夫人の神経病を治し、裁判官イワン・イスレニエフの癌を治し、イエラギン将軍のために錬金術の秘法を公開した。ロシア皇后の侍医が手遅れだとして見放した患者を、彼はきとに立ち直らせた。そのため名誉を傷つけられた医者と決闘する騒ぎになり、彼はロシアを去るのである。
 一七七七年、イギリスフリー・メーソンの会員となったカリオストロは、全ヨーロッパに支部をもつこの秘密結社の内部でも、次第に重きをなす人物となった。ベルリンで国王フリードリヒ二世に手厚く迎えられたのは、この国王がやはりメーソン会員だったからである。フランス革命に参加した進歩的な貴族の多くが、当時、フリー・メーソンに属していたことはよく知られている。やがて一七八五年、パリにやってくると、カリオストロ夫妻はサン・クロード街のサヴィニー館に堂々たる居を構え、エジプトの伝統的な古式に則って、みずから新らしいフリー・メーソンの一派を組織した。カリオストロ夫人ロレンツァは、女性のための結社をつくって、夫と協力した。
 パリの最高の貴族や貴婦人たちが、カリオストロ夫妻の邸宅へぞくぞく詰めかけるようになった。きらびやかな祭司の服装で、主人夫妻は客を迎え入れ、おごそかな儀式を執行したり、夜食会を司会したりした。夜食会には、当時の第一級の哲学者や聖職者も出席した。ある晩のごときは、招待客は六人しかなかったのに、十二人分の席が用意された。ディドロヴォルテールなど、もうすでに死んでいるはずの学者たちの席である。カリオストロは、これらの死者たちとも自由に談話を交わすことができるのだった。
 しかし彼の人気は、ただ貴族階級のあいだだけに限られていたわけでは決してない。彼は貧乏人の面倒をよく見、貧民窟をまわって治療して歩いた。だから一般庶民のあいだでも、彼の人気は絶大で、彼が間違った嫌疑で留置されていたパスティーユ監獄から釈放された時などは、一万人のパリ人が彼をかつぎ上げて、意気揚々と市衝を練り歩き、その翌日は、彼の住んでいた家の前に、カリオストロを歓呼する群衆がひしめき集まった。暴動が起るのではないかと案じて、政府はこの予言者に、八日以内にパリを立ち去るよう命じなければならなかったほどである。


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Last-modified: Fri, 21 Mar 2008 00:06:19 JST (3683d)