ところで、ここに奇怪な事実が存在するのである。すなわち、騎士デオンがようやく許されて、ドーヴァー海峡を渡ってフランスの土を踏めるようになったとき、彼は帰国の条件と引き換えに、今後死ぬまで、絶対に女装をしていなければいけない、と申し渡されたのである。いったい、どうしてこんな奇怪な命令が、フランス王の名によって発せられたのであろうか。
 一説によると、これにはイギリス王妃ソフィア・シャルロットが関係しているという。かつてロシア旅行の折、騎士デオンはドイツザクセン地方で、メクレンブルグ公爵の邸に逗留したことがあったが、その公爵家の令嬢が、現在のイギリスジョージ三世の妃だった。旧知の二人は、ロンドンで急速に親しくなり、ある晩、一緒にベッドに入っているところを王に発見された。−こんなスキャンダルがあったので、フランス政府としてはイギリス王を安心させるためのアリバイを作る必要に迫られた。つまり、つねづね女の服装をして人目を惹いていた騎士が、じつは本物の女であったということにしてしまえば、イギリス王もコキュ(寝取られ男)の不名誉から免れられるわけである。それで、フランス本国への帰還に際して、彼を無理やり女に仕立てあげてしまった、という次第である。
 しかし、この説は眉唾ものであろう。その理由は、第一に、イギリス王が妻の不義の現場を見つけたら、ただちに妻のベッドを汚した男の首を刎《は》ねてしまうはずだからである。第二に、騎士デオンという男ほ、「スカートをはいたドン・ファン」などと渾名され、その女装癖を女に近づくための手段と疑われたけれども、じつは、女には全く興味のない男だったと信じられるからである。ロシア宮廷でも、彼は貴族の女たちにちやほやされたが、浮いた噂一つなかった。
 デオンを女と信じ切っている人間も、たくさんいた。マリー・アントワネットも、ルイ十六世も、彼を女にちがいないと思っていたから、ルイ十五世のように、もう彼に秘密の使命などあたえようとはしなかった。ただ、彼の保管している昔の機密文書だけが、当局者にとって悩みの種だった。向う見ずなデオンは、この機密文書を抵当《かた》にして、多額の借金までしていたのである。


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Last-modified: Thu, 20 Mar 2008 16:18:10 JST (3683d)