日露戦争で大敗北を喫してから、第一次世界大戦勃発までのロシアは、対外的にも対内的にも、まきにロマノフ王朝最後の苦悶といったところであった。宮廷内では、王位継承の陰謀が渦まき、宮廷の外では、社会主義者やアナーキストの専制君主打倒のテロが頻発していた。ラスプーチンが皇帝や皇后の信任を得、政治の分野でも次第に発言権を強めてくると、彼を嫉視する者や、危険視する者があらわれ出すのは当然であったろう。皇帝の親族は、ほとんどラスプーチンの敵であったし、革命運動のパンフレットは、露骨に彼の専横ぶりを攻撃しはじめた。
 第一次大戦勃発の前、ラスプーチンは徴底的な非戦論を唱え、戦争が始まってからも終始一貫、対独講和の説を主張して譲らなかった。ツァーリズムに忠実な、ウィッテ伯のような保守政治家とは気が合っていたらしい。しかしツァーリズムの滅亡を予知していたようで、「おそろしい嵐がロシアを脅かしている。やがてロシアは、その血のなかに溺れるだろう」などと皇帝に書き送っていた。
 一九一六年の復活祭の日、皇帝一家とともに礼拝堂でミサを執行していると、急にラスプーチンは、押し殺したような小さな叫び声を洩らし、額面蒼白になり、よろよろと倒れかかった。驚いて娘が彼を支えると、ラスプーチンは「心配しなくてよい。ただ怖ろしい幻覚を見ただけさ。わしの屍体が、この礼拝堂に横たわっているのだ。そして一瞬、わしは死の苦痛をまざまぎと感じたのだよ。わしのために祈ってくれ。わしも間もなく死ぬだろう」と答えたという。その年の十二月、彼は実際に死ぬことになるのである。


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Last-modified: Thu, 15 Dec 2005 20:28:53 JST (4509d)