いずれにせよ、七十歳をすぎた武后の心には、なすべきことをすべて実現した者の満ち足りた感情が、徐々に芽生えかけていたらしい。朝政は信頼できる有能な人物にまかせて、自分は女としての最後の快楽、わが世の晩年の春を心ゆくまで楽しもう、という気持ちだったのかもしれない。

七十五歳の武后の情事の相手は、有名な張兄弟であった。ともに二十代で、色が白く、すばらしい美貌の青年。二人が宮中に伺候したときは、顔に紅をさし、髪には油をたっぷり塗り、口には鶏舌香をふくんでいたという。兄の易之《えきし》は媚薬や回春剤の専門家で、この道楽者の婆さんを悦ばせる特別の方法を用いたという。そうでもしなければ、なかなか役に立つまい。

張兄弟との情事はたちまち知れわたり、武后の若いツバメどもの名は街々に貼り出され、小唄や落首などで嘲弄されるようになった。すでに恐怖時代は去り、民衆の反抗的気分は、あからさまになっていたのである。

武后はスキャンダルをもみ消すために、若いツバメを宮中に囲っておく名目を考えた。こうして作られた新しい官職が控鶴府《こうかくふ》で、二人の兄弟は、そこの役人に任ぜられた。

控鶴府とは、一種の宗教文学研究所のような機関である。易之を主任とする編集委員がいて、孔子、老子、釈迦、およびその他の聖賢の言葉を収録する、いわば宗教文学アンソロジーのようなものを作りつつあった。

道教の神仙は鶴に乗って不老不死の国にいたるという。控鶴府とは、象徴的な名前で、安逸を楽しむ享楽主義のユートピアを意味していた。学者や文人も、たまにはここを訪れることがあって、一見したところ、知的な雰囲気も漂っているかのように見える。

とはいえ、研究所とは表むきの名目で、所員の実際の仕事は酒宴と賭博であった。武后はこの役所を地上の楽園にするつもりだったのかもしれない。

役所は瑤光殿と呼ばれる、贅美をつくした宮殿の内部にあった。広大な庭園があって、池には小島が浮かび、橋だの、飾り門だの、極彩色に塗られた渡り廊下だの、潅木だの、彫像だのが配してある。役所の所員はすべて美貌の若者である。弟の昌宗は、この桃源郷のような場所で、神仙らしく羽毛を身にまとい、手には一管の笛をもって、木製の鶴の背にまたがっていたという。羽化登仙とは、まさにこのことであろう。

かくて武后の晩年は、荒々しさが影をひそめたとはいえ、頽廃的生活をきわめたものになった。控鶴府は、ローマ皇帝ティベリウスカプリ島の宮廷とも比較され得る、男を集めた後宮、倒錯的な情事の取引場と一変し、同性愛の中心地となった。

死の一年前、七〇四年ごろから、武后は病床につくことが多くなった。二人の青年につき添われて、自室にひきこもったままのこともあった。すでに八十二歳である。

張兄弟はいたるところで憎悪の的になり、ようやく王室復興の機運が熟した。

武力革命が起ったのは七〇五年一月である。張兄弟は革命軍の兵士に首を斬られて死んだ。無力になった老齢の独裁者は、首都の西方の離宮に移され、そこで監禁される身となった。そして十一月、孤独のうちに世を去った。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:05:01