ロココの王妃がトリアノンの別荘で贅沢な祝典に明け暮れしているあいだ、彼女の知らない外部の世界では、次第に新しい時代の動きが準備されつつあった。緊迫した時代の雷鳴が、パリからヴェルサイユの庭園はとどろきわたるころになっても、彼女はまだ仮面舞踏会をやめようとしない。時代の空気をよそに、相変わらず享楽生活をあきらめず、国庫の金を湯水のように蕩尽する彼女に対して、避難攻撃の声が高まりはじめた。

オルレアン公の庇護のもとにパレ・ロワイヤルに集まった改革主義者、ルソー主義者、立憲論者、フリー・メイソンなどといった不平分子たちのあいだに、活溌[#さんずいに旧字の発]なパンフレット活動が開始される。フランス王妃は「赤字夫人」とあだ名され、卑しい「オーストリア女」と蔑称される。

王妃自身、自分の背後で悪意のこもった陰謀がたくらまれていることを、はっきり感じ取ってはいるものの、生まれつき物にこだわるということを知らず、ハプスブルグ流の誇りを片時も忘れたことのないマリー・アントワネットは、これら一切の誹謗やら中傷やらを、十把一からげに軽蔑するほうが勇気ある態度だと信じている。王妃の尊厳が、賎民のパンフレットやら諷刺小唄などで傷つけられるはずはないと高をくくっている。誇り高い微笑を浮かべて、彼女は危険のそばを平然と歩み過ぎるのだ。

市民の王妃に対する反感をいやが上にも煽り立てる原因の一つとなったのは、有名な「首飾り事件」であった。この馬鹿馬鹿しい詐欺事件に、王妃は実際何ひとつ責任がなかったのであるが、少なくとも王妃の名のもとに、このような犯罪が行われたという事実、そして世間がこれを信じて疑わなかったという事実は、拭い去ることのできない彼女の歴史的責任といえよう。プチ・トリアノンにおける長年の軽率な愚行が世間に知られていなければ、詐欺師たちといえども、こんな大それた犯罪を仕組む勇気はとてもなかったにちがいないからである。

首飾り事件」によって、旧制度の醜い内幕が一挙にあばき出されることになった。市民たちは初めて、貴族と呼ばれる連中の秘密の世界をのぞき見ることになった。パンフレットがこんなに売れたこともなかった。「首飾り事件」は革命の序曲である、といった史家もある。

この事件の直後、王妃が劇場にすがたをあらわすと、はげしい舌打ちが観衆のあいだから一せいに起り、それ以後彼女は劇場を避けるようになったといわれる。積りに積った市民の怒りが、たったひとりの人物に向って叩きつけられる。正面攻撃にさらされるのは、お人好しの国王ではなくて、「彼の鼻先をつかんで引きまわしているオーストリアのふしだら女」なのだ。王妃はついにたまりかね、「あの人たちはわたしから何を要求しているのでしょう?わたしがあの人たちに何をしたというのでしょう?」と、側近の者に絶望の溜息をもらすまでになった。

しかし彼女には、歴史の趨勢を理解する能力もないし、理解しようという意思もない。二千万のフランス人に選ばれた代議士たちを、彼女は「狂人、犯罪者の集団」と呼び、民衆のデマゴーグに対しては、ありったけの憎悪を傾ける。最初から最後まで、彼女は革命というものを、低劣きわまりない野獣的本能の爆発としか考えないのである。

政治的にごく視野の狭い彼女は、明日のパンに困っている人間が存在するということさえ、ついぞ念頭にはのぼせなかった。そもそも世界の悲惨を知らないでいたればこそ、あのように繊細優美なロココの小宇宙に君臨することもできたのである。今やこの小宇宙もシャボン玉のように砕け、嵐が目前に迫っている。運命の無慈悲な意志は、歴史上最も波瀾に富んだ事件の渦中に、戸惑っている彼女を突き落とす。…

七月十四日、ルイ十六世はいつものように狩猟から帰ると、十時に寝てしまった。パリから顔色を変えて注進に及んだリアンクール公が、国王をたたき起して、次のように報告する、「バスチイユが襲撃されました、要塞司令官は殺害されました!」「では、反乱というわけか」と寝ぼけまなこの王は、驚いて口ごもる。「いいえ陛下、革命でございます」と使者が答えた。これは名高いエピソードである。


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Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:05:05