そんな折、思いがけなくも、ゴーダンがぽっくり死ぬという事件が起こった。一六七二年のことである。

伝説によると、自宅で毒物実験の最中、有毒ガスを吸うのを防ぐためにつけていたガラスのマスクが落ちて、毒ガスに打たれ、大釜のなかへ頭を突っこんで死んだという。この尤もらしい説を流布させたのは、小説家のアレクサンドル・デュマである。事実は病死らしい。

彼には相読者がいなかったから、モーベエル広場の袋小路にあった彼の家や財産は、ただちに警察の配慮で封印された。そのとき、チーク材の妙な小箱が警察の手に押収された。小箱にはゴーダンの筆跡で、次のようなことを記した手紙が添えられていた。

「この小箱を手に入れた方に、余は辞を低くしてお願い申しあげる。どうかこの小箱を、ヌーヴ・サン・ポール街に住むブランヴィリエ侯爵夫人の手に返却していただきたい。箱の中身はすべて彼女に関するものであり、彼女のみの所有に帰すべきものである。云々。」

これより前、ゴーダンが死んだという知らせを受けたとき、彼女は血相を変えて、「あたしの小箱はどうなった?」と叫んだそうである。

ともあれ、警察はこの謎の小箱を開けようか開けまいか、永いこと迷ったらしい。夫人はこれを開けさせまいして、いろいろ手をつくしたが、その努力も空しく、小箱は開けられてしまった。

出てきたのは、夫人からゴーダンに宛てた三十六通の恋文と、砒素昇汞アンチモニー阿片などの劇薬であった!

嫌疑を受けていることを知って、夫人は用心ぶかく田舎に引っこみ、箱の中の手紙はすべて贋物だと吹聴させた。そうこうするうち、ゴーダンの助手のラ・ショッセが逮捕され、足枷の拷問を科されて、知っていることを洗いざらい告白し、その日のうちに、車裂きの刑に処されて死んだ。

ロンドンに逃げのびていた侯爵夫人は、欠席裁判で斬首の刑を宣告された。やがて英国政府が彼女の追放令を発すると、夫人はオランダの落ちのび、次いでピカルディヴァレンシエンヌリエージュと、転々と逃げまわった。そうして、最後にリエージュのある修道院に身をひそめていたところ、フランス司法警察の巧妙な罠にかかって、ついに捕縛されたのである。

修道院の中にいるかぎり、警察の手は彼女を捕えることができなかったのであるが、裁判所から派遺されていた警官隊長のデグレという者が僧侶に身をやつし、修道院の中へしのび込み、色仕掛けで彼女に逢曳の約束をさせ、うまうまと夫人を外におびき出したのである。約束の場所へ赴くと、警官隊が彼女を取り巻き、情人だった僧侶は役人に早変わりした。そのまま夫人は無理やり馬車にのせられ、数時間後には、警官隊につき添われて、パリに護送されていた。

そのまま夫人は無理やり馬車に乗せられ、数時間後には、警官隊につき添われて、パリに護送されていた。


トップ   差分 バックアップ リロード   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2005-02-26 (土) 13:05:10