帝の死とともに、二十歳になる太子哲(武后の実子)が即位したが、彼はたった五十四日間皇帝の座についていただけで、ただちにその位を追われることになった。皇太后の武后が口実をもうけて彼を廃位し、幽閉してしまったのである。武后が息子を廃したのは、これで四度目である。

ひとびとは当然、末子の旦《たん》が帝位を継ぐものと思っていた。ところが、彼もまた捕えられて宮中に監禁され、帝位はいつまでも空いたままだった。じつはこれが武后の狙いであって、彼女は息子を残らず廃し、自分ひとり至高の玉座に座っていたかったのである。自分ひとりの国家をつくることを夢みていたのである。

かくて武后は単独の支配者となり、やがてみずから皇帝を称するにいたるまで、大わらわで朝の一族を滅ぼしにかかる。その間、何度か不平分子の叛乱が起ったが、その一つ一つを彼女は着実にたたきつぶしていった。

六八四年に始まるこの時代は、ふつう則天武后の治世と呼ばれることになっている。それは怖るべき粛清政治と密告制度に基礎をおいた、恐怖の時代、暗黒の時代であった。機を見るに敏な武后が、矢つぎばやに粛清の鉄槌をふり下ろすので、世間は息つく暇もないほどであった。朝の血筋につながる王族たちは、明日をも知れぬおのれの運命を思って、みな恐怖にふるえおののいた。

有名な密告制度は六八六年に始まる。とはいえ、それはまことに単純なもので、ただ役所の建物のなかに銅の箱をもうけただけの仕掛にすぎなかった。この箱に、友人や隣人の反政府的行動を密告したいと思う者は、だれでも遠慮なく投書することができる。どんなに身分の低い者でも構わない。

拷問の技術や犯人を自白させる方法が、驚くほど進歩したのもこの時代である。そのために『告密羅織《こくみつらしょく》経』という書物が書かれたが、これは、いかにして罪人をつくりあげるかを解説した案内書であって、いわば司法警察の役人たちの法典である。

裁判所の役人たちは、「酷吏《こくり》」と呼ばれ、武后の手先として民衆に最も恐れられた。彼らはそれぞれ数百人を殺害し、その数千の家族を悲惨のどん底に突きおとした。

酷吏のなかでも飛び抜けて残忍な索元礼《さくげんれい》という男は、被告から自白をひき出すのに独特の方法を用いた。すなわち、鉄の帽子を被告の頭にかぶせ、クサビで徐々に締めつけるのである。被告が頑として口を割らない場合は、頭蓋骨がくだけることもある。

また来俊臣《らいしゅんしん》という酷吏は、これまた索に劣らぬ残忍無類な男で、自供させるために、まず被告の鼻に酢を注ぎこむ。それから不潔きわまりない地下牢にぶちこみ、食を断ってしまう。囚人は空腹のあまり夜具を噛んだといわれる。やがて立てつづけの訊問と拷問がはじまり、囚人は眠る暇もあたえられず、くたくたに神経をすりへらしてしまう。

この時代に発明された訊問法の数々は、人間心理の弱点をついた、じつに洗練された巧緻なもので、あたかもナチススターリン時代の恐怖政治を思わせる。そうかと思うと、囚人の耳に泥をつめたり、胸を圧迫したり、爪のあいだに鋭い竹を突き刺したり、髪の毛で吊るしたり、眼球を傷つけたりする野蛮な刑もあった。


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Last-modified: Sat, 26 Feb 2005 13:05:01 JST (5013d)