バーナード・ショーの諧謔に富んだ皮肉な戯曲『シーザーとクレオパトラ』では、クレオパトラは最初、まだほんのねんねえ[*「ねんねえ」に傍点]で、野蛮なローマ人侵入の噂[*旧字]におびえきった、子供の女王として現われる。

若禿の頭を月桂冠で隠した初老の英雄シーザーは、エジプトの神秘な月の夜に陶然として砂漠をさまよいながら、ふと、巨大なスフィンクスの足もとに、ケシの花叢にうずもれて眠っている少女の女王と、はじめて対面するのである。

シーザー「こんな夜ふけに、あなたはここで何をしているんだ?」

クレオパトラ「だってローマ人は、わたしたちを捕えたら食べてしまうじゃないの。あいつらは野蛮で、その酋[*旧字]長はジュリアス・シーザーといって、お父さんは虎、お母さんは燃える山。あいつの鼻は象の鼻みたいに長いのよ」(シーザー思わず自分の鼻をさする)

この「年とって痩せて筋ばっているけれど、いい声をした面白いおじさん」が、やがてシーザーその人であることが分かって、クレオパトラは仰天してしまう。

シーザーは、女官や奴隷に対する口のききかたさえ知らないクレオパトラに、女王らしく威厳をもって振舞うことを教えこむ。そして、すっかり自分になついてしまったこの娘に、やがてローマからすばらしいプレゼント―はつらつとして新鮮で、強くて若くて、朝には希望をもち、昼には戦って、夜には歓楽にふける、美しい、身分の高いローマ人を、自分の代りに送ることを約束して、心を残しながらエジプトを去るのである。

ショーによって描かれたクレオパトラは、しかし、あまりに娘っ子然としていて、親しみやすすぎる。ローマ人が彼女に与えた「ナイルの魔女」とか「娼婦女王」とかいう名のような、冷たく妖艶な感じはここにはまったくない。

実在のクレオパトラはどうだったのだろうか。たぐいまれな美貌と才知に物をいわせて、ローマの英雄たちを次々に蕩しこんだ、凄腕の悪女にすぎなかったのだろうか。

彼女はたしかに手練手管に長けていた。だがそれは、単なる淫蕩の気質のためではなかった。彼女には、じつは大きな野心があったのであり、彼女の恋愛生活そのものが、その計画達成のための手管となっていたのだ。

クレオパトラローマを利用するつもりだった。新興ローマの勢力を利用して、自国エジプトを世界に君臨させようと狙ったのである。

だが、歴史の趨勢には彼女も勝てなかった。エジプトローマ。地中海をへだてて、かたや四千年の文化と伝統を誇りながら、疲れ衰える一方の富裕な大帝国。かたや僅々数百年の間に、一介の農業国から着々と歴史の中心にのさばり出してきた、新参の共和国。

ローマにとってエジプトは、莫大な財産をかかえた金持の老女のようなものだった。彼女はこの宝を、ついに成り上り者の手に委ねざるをえなかった。

エジプトの女王クレオパトラローマの英雄たちの物語は、ある意味で『桜の園』古代版ともいうべき、新旧両勢力の交代にまつわる一つの悲劇だったといえよう。


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Last-modified: Sat, 26 Feb 2005 13:05:12 JST (4985d)