もっとも、『日記』には、敦道親王の死までは書かれてなく、歌のやりとりから始まったロマンティックな二人の恋の初期から、やがて人目を忍ぶ仲になり、世間の噂の種になり、二人のあいだに誤解やら嫉妬やらがあった末に、ついに親王が意を決して、妃がいるにもかかわらず、恋人を本邸に迎えようとするところまでで終っている。

 たしかに式部は惚れっぼい、浮気な、悪くいえば色好みな女であったのかもしれないが、自分を心から愛してくれた純情な兄弟に二人まで、次々に死なれたという事情を考えてみれば、その後の彼女の男性遍歴も、一概に非難することはできないような気がする。その心に、彼女がどんな深い傷を負い、どんな深い悲しみをいだいていたかは、だれにも分らないからである。

 二人の親王に死なれると、式部は一条天皇中宮彰子《しょうし》の御殿に宮仕えすることになったが、ここには紫式部赤染衛門などのような、口うるさい才女連中も多くいたはずだから、彼女の奔放な行動は、さぞ噂の種になったことであろうと想像される。
 式部は男運にも恵まれなかったが、さらに最初の結婚で生まれた娘、小式部内侍にも先立たれて、子供を喪った母親の悲嘆をも味わわねばならなかったのは、いかにも気の毒である。この小式部が母親に似て、若いうちから抜群の歌才を示したことは、百人一首のなかの「大江山いくののみちの遠ければ…」の歌とともに、よく知られている。

 チェホフの『可愛い女』ではないが、和泉式部のような多情多感な、そして一見したところ、自由恋愛のチャンピオンのようにも思える女性にも、結局、男にすがらなければ生きて行けないような、生ま身の女の弱さがあったのであろうか。

  枕だにしらねばいわじ見しままに

   君かたるなよ春の夜の夢

 こんな歌にも、やはり女の恥じらいがよく出ているように思われる。


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Last-modified: Wed, 25 Mar 2009 23:02:53 JST (3496d)