しかし彼女の美しさ、聡明さをもってしても、戦国の世に生きる武将の妻としての、時代の束縛から逃れるわけにはいかなかった。逃れる道は、ただ信仰しかなかった。

 関ケ原の戦いがはじまると、徳川方についた細川忠興は、長男をつれて関東へ出陣したのである。徳川の敵である石田三成が、大坂に残された大名たちの家族を、人質として大坂城内に閉じこめようとしたのは、その留守中のことであった。

 ガラシア夫人の貞潔は、しかし、人質という状態に甘んじることができなかった。屋敷を石田の兵に取り囲まれて、彼女は死の道をえらぼうとした。といっても、キリスト教では自殺は禁じられている。彼女は家老の小笠原少斎に胸を突かせて、三十八歳の生涯を終えたのである。

 当時、やはり美人として名高かった、たとえば信長の妹の小谷の方のような女性が、同じように政略結婚の犠牲となって、浅田家から柴田家へと再婚しているのとくらべると、このガラシア夫人の生き方には、なにか毅然としたものを感じないわけにはいかない。彼女は封建道徳に翻弄される人形ではなかったのである。

 たぶん、彼女の夫の忠興は、ひたすら信仰に生きようとする妻の姿勢に、たじたじとなっていたことであろう。夫から棄教するように迫られても、禁教令の庄追を受けても、ガラシア夫人は少しもひるまなかった。そして自分の一念をつらぬき通した。

 だから、彼女の貞潔、彼女の一夫一婦の理想は、当時の体制に対する唯一の抵抗、ウーマン・リブだったわけである。


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Last-modified: Wed, 25 Mar 2009 23:04:14 JST (3429d)