女の主体性と自由を守りぬいた反体制のヒロイン

 いまどき、一夫一婦制の美徳を守って死んでいった貞女の話などすれば、威勢のよいウーマン・リブのおねえさん連中から、せせら笑われるかもしれない。しかし、人間の社会はジグザグの道を通って発展するものである。封建社会の道徳が支配的であった時代、つまり、男が何人の妾《めかけ》をもってもよいという時代には、かえって一夫一婦制の美徳こそ、命をかけた個人の自由の表現であり、また社会に対するレジスタンスでもあったはずだ。

 男の力が弱くなり、平均化された現代の管理社会がやってきて、初めてウーマン・リプの運動の起り得る基盤ができた。それまでは、だれもそんなことを考える人間はいなかったのである。

 そういう意味で、細川ガラシア夫人の悲劇は、封建道徳の犠牲者のそれというよりも、むしろ女の主体性と自由を守りぬいた、反体制のヒロインの悲劇であると言うべきかもしれない。

 明智光秀の三女として生まれた玉子(のちにキリシタンの洗礼を受けてガラシアと名のる)は、十六歳のとき、織田信長の仲介で、細川忠興の妻となった。彼女の不幸がはじまるのは、父の光秀信長を討って、いわゆる謀叛人となってからである。

 玉子は謀叛人の娘であるため、婚家の細川家から離縁され、京都の三戸野《みとの》山中に幽閉されることになった。夫の忠興は、玉子を熱愛していたが、主君への忠誠(これこそ封建倫理の第一のものだ)を示すため、やむを得ず、彼女を身辺から遠ぎけたのである。

 この淋しい幽囚のあいだに、玉子は悩み、キリスト教に接近したと言われる。当時、日本に渡来したばかりのキリスト教が、封建道徳の圧力により、もっぱら政略結婚の道具となっていた人妻にとっては、女の主体性を尊重する、まったく新しい宗教に見えたとしても、不思議はなかろう。

 やがて秀吉が天下を取ってから、戦功のあった細川忠興の妻は、呼びもどされて細川家に復縁する。そして天正十五年、玉子は洗礼を受けて、ガラシア夫人となる。彼女がいかに美人で、聡明で、信仰に篤い女性であったかは、そのころ日本へ釆ていた外国人の書いたものによっても知られるほどだ。


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Last-modified: Wed, 25 Mar 2009 23:04:11 JST (3429d)