平徳子(たいらのとくこ)(1155-1213)

平清盛の娘、高倉天皇の妻、安徳天皇の母。

平時信―――平時忠
    |
    +―平時子(二位の尼
    |  ‖―――平徳子(建礼門院)
    | 平清盛   ‖
    |        ‖――安徳天皇(言仁)
    +―平滋子   ‖
       ‖―――高倉天皇(憲仁)
      後白河上皇(雅仁)

仁安2年(1167)清盛は太政大臣になり、翌年は甥に当たる憲仁親王
が皇位につき(高倉天皇)、承安2年(1172)には、徳子が高倉天皇の中宮と
なって、清盛の天下は最高潮に達します。

しかしその後滋子(建春門院)がわずか35歳で病没(1176)した後、後白河
上皇と清盛の関係は冷え切り、翌年には鹿ヶ谷の変が起きて俊寛らが鬼界ヶ
島に流されることになります。

安徳天皇が践祚した1180年の4月には以仁王(後白河天皇の皇子)が平家打倒
の令旨を出し、8月には伊豆で源頼朝、9月には源義仲(木曾義仲)が木曾で
挙兵、10月には源義経が頼朝に合流しました。

源氏平氏は北陸と東海で激突、その戦乱のさなかに清盛が没すると、戦い
は一気に源氏側の優勢になっていきます。そして1183年7月28日木曾義仲が
京都に入り、その直前の25日、平家一門は安徳天皇二位の尼・建礼門院ら
とともに西海に落ち延びていきました。

これに対して源氏は源義経を中心とする軍勢が1184年2月7日一ノ谷、1185年
2月19日屋島、同3月24日壇ノ浦の合戦で次々と平氏を打破、平家一門は関門
海峡に沈んでいきます。

壇ノ浦で救われた建礼門院は京都に護送され、髪をおろして出家します。
時に29歳。そして女房の一人右京太夫の助言で大原の地に庵を結びました。
彼女はここで亡くなるまで28年もの年月を静かに念仏三昧で過ごして、平家
の人々の霊を弔います。出家の翌年、彼女を気遣った後白河上皇が庵を訪れ
ました。その時建礼門院は涙が止まらなかったといいます。平家物語は、
この建礼門院の侍女・横笛の悲恋も併せて伝えています。http://www.ffortune.net/social/people/nihon-heian/kenreimonin.htm

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Last-modified: Sat, 26 Feb 2005 13:05:42 JST (4954d)