アンリ3世、Henri III de France、ヘンリー、Henry III of France(1551年-1589年 在位1574年-1589年)

Henry III (Henri III in French) (September 19, 1551 - August 2, 1589) was King of France from 1574 to 1589.

  • King Henri III -

Henri was born Edouard-Alexandre at the Royal Château of Fontainebleau, Seine-et-Marne, the son of King Henri II and Catherine de Medici. He was elected king of Poland in 1573 but shortly after, at the death of his brother Charles IX, he returned to France. He was crowned King of France in 1575 in the Cathedral at Reims.-wikipedia.en

ヴァロア朝最後のフランス王。父はアンリ2世。母はカトリーヌ・ド・メディシス

はじめポーランド王に就任していたが、兄シャルル9世の死去を受けてフランス王に即位した。フランス宗教戦争では、母と協力して聖バルテルミーの虐殺をおこしてユグノーと呼ばれる信教徒を弾圧した。

後のフランスブルボン公アンリや有力者ギーズ公アンリと争ったが、精神を病んだ修道僧に殺されてヴァロア家は断絶した。-wikipedia.jp

ヴァロア朝第13代フランス王。
父はアンリ二世
母はカトリーヌ・ド・メディチ
フランソワ二世シャルル九世の弟。

1584年に王弟フランソワが死ぬと、王位継承者がナヴァール王アンリに及ぶ。かねてから王位をうかがい王権に果敢な干渉を試みてきたギース公アンリは、これをきっかけに全国的な新教徒弾圧に乗り出した。

1588年、パリ市民の中でも過激な旧教徒の一派が蜂起して、ギース公アンリを頭にしてアンリ三世を首都から追放する。「バリケードの日」である。ブロアに逃れたアンリ三世は、三部会(聖職者、貴族、平民からなる国民議会)を招集して、この席上でギース公アンリを暗殺する。王権を強固にするためとはいえ、この手段は国内の強硬派を逆上させた。

翌年早々に、カトリーヌ・ド・メディチは70年に及ぶ生涯に幕を閉じた。3人のフランス王の母として権力を振るった彼女であったが、その死に際して、息子アンリ三世パリ市を始めとする多くの都市から拒絶され、王位は事実上、空席となったままだった。

母カトリーヌに遅れる事半年、ナヴァール王アンリの力を借りてようやく王権を復旧したアンリ三世は、過激派修道士の手にかかって暗殺された。彼は臨終に際して、ナヴァール公アンリを祝福し、自分の後継者として指名するとともに、旧教に改宗するように遺言した。

しかし、旧教に改宗しアンリ四世と名乗った後継者が、パリに入城を果たしたルーヴルの主となるまでには、5年という歳月がかかる。

カトリーヌの遺骸はブロアの教会に留め置かれた。フランス国内は革命前夜のような騒ぎで、パリのサン・ドニにあるアンリ二世の墓所に移すことができなかったからである。

カトリーヌが晴れて夫の傍らに眠るのは、アンリ四世の死後の事である。-http://www.d8.dion.ne.jp/~kuneriz/sarisa5.htm

http://nekhet.ddo.jp/people/valois.html#henri3

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Last-modified: Sat, 26 Feb 2005 12:58:46 JST (5040d)