ところが砒素に対する有効な解毒剤となると、当時の薬剤師たちは丸きり見当がつかなかったらしく、今日から考えればお笑い草のような、奇妙きてれつな意見をいろいろ述べている。

たとえばフランスの詩人プレエニェは、桃金嬢《ミルタ》とかメリッサ草とかの植物が大いに効果を発揮すると言っており(『医学提要』)、メルクリアリスは、あのチェザーレ・ボルジアの例を思い出してか、断ち割った馬あるいは牛の胎内に素裸になって入り込み、熱いどろどろの血や臓物のなかに浸れればよい、と言っている。またロランス・カトランは、「あらゆる種類の毒や伝染病に対する特効薬」とみずから信じていた糞石《ふんせき》の効き目について得々と語っている。(『糞石論』モンペリエ、一六二三年)

ちなみに、糞石(Bezoar stone)とは半鉱物質、半有機質の結石で、草食動物の腸管内に発見されるものである。この名前は「毒下し」という意味のペルシア語Pa-Zahrから由来する。すなわち、Paは「反対」の意味であり、Zaharは「毒」の意味である。十二世紀スペインのアラブ系医学者アヴェンゾアルは糞石の効果をふかく信じ、これに関して筆録した最初の医学の権威者であった。

糞石はさらに後代の薬学において非常に珍重され、ロンドン薬局方には最初の百年間薬品中に包含されていた。これには二種類あって、その一つは東洋糞石(午黄《ごおう》)であり、他の一つは西洋糞石であった。貴族はこれを金あるいは銀の箱に納めて護符として携帯し、疫病の流行した時などは、一日幾らという高額で貸与されたものであった。ある東方の太守からエリザベス女王に贈られた贈物のなかにも、大型の糞石があり、その価はほとんど信じがたいほど高価で、時によっては、ある所領の全部がわずか一つの糞石と交換されるくらいであった。

アヴェンゾアルの説によると、

>「この石は雄鹿の眼より出たものである。雄鹿は強壮の目的に蛇を食い、ただちに流れに走りこみ、首のところまで水中に浸って、蛇のため何か有害の結果が起きるのを防ぐ。この場合、雄鹿は少しも水を飲まない。もし飲めば、ただちに死んでしまう。水中に浸っていると毒の力を弱め、同時に雄鹿の眼瞼より一種の液体が滲出し、それが凝固して石となる。これが有名な糞石である。」

ともあれ、フランス王家の宮廷付外科医であったアンブロワズ・パレの語っている、糞石の効果に関する生体毒薬実験の報告は、その残酷さにおいて注目に値するから、次に紹介しておこう。

パレは自分も宮廷の陰謀に巻き込まれ、何度か毒殺の危険にさらされた経験の持主だったから、毒の実験には進んで参加する熱意があった。あるとき、ある貴族がスペイン産の糞石をシャルル九世に献上すると、王はその効果を確かめてみるために、お気に入りの侍医パレを招いて、生きている人間を使って実験を試みようとしたのである。

王はまずパレに向かって、あらゆる毒物に対して有効な解毒剤というものが存在するだろうか、と質問した。パレは、毒というものはそれぞれ性質が異なるものだから、すべてに有効な解毒剤などは考えられない、と答えた。ところが糞石を献上した貴族は、パレの意見に反対を唱えて、この石こそ、あらゆる毒に対して効き目をあらわす特効薬である、と主張したのである。そこで実験によって正否を確かめてみようということになり、死刑に予定された罪人はいないかと宮廷裁判長に問い合わせてみると、うまい具合に牢屋のなかに、主家から二枚の銀の皿を盗んで、翌日絞首刑になることに決まっていた料理人がいたのであった。

王は罪人に向って、もしお前が実験台になって毒と解毒剤を嚥み、幸いにして命が助かったら、そのまま死罪一等を免じてやろうと言った。罪人はむしろ喜んで、公衆の面前で絞首刑になるよりも、毒を嚥んで死ぬ方がどれだけよいかわからないと答えた。そういう次第で、この罪人は、まず毒の一定量を飲み(毒は昇汞水であった)、それから例の糞石をあたえられて嚥下したのである。

「二種類の薬品を胃のなかに嚥みこむと、彼は吐きはじめた」とパレは語っている、「やがて猛烈な便意を催して、便所へ行き、体がやけるようだと言って、しきりに水を欲しがった。そのうちには獣のように四つん這いで歩きはじめ、口から舌を出し、眼と舌を出し、眼と顔全体を真赤にして、冷汗をたらたら流しながら、なおも吐き気を訴えた。そしてついに、耳と鼻と口と、肛門と陰茎とから、おびただしい血を溢出して、悲惨な死をとげたのである。」(マルゲエニュ版全集第二十一の書)

こんな記録を読まされると、古代のネロの血みどろの宮廷か、あるいはナチスの陰惨な強制収容所におけるがごとき生体解剖の幻影がちらついて、二十世紀のわれわれの脆弱な理性にとっては、まことに戦慄を禁じ得ない事情があるが、しかし、あえて卓れたヒューマニストとして歴史に名を残したアンブロワズ・パレのために弁じておけば、このような残酷な毒物の実験は、異端糾問と火刑台の拷問の呻吟が地上を覆っていた十六世紀当時にあっては、さして驚くには当らない、ごく普通のことであったのである。同じような砒素の解毒剤の実験は、シエナの医者マッティオリの『オペラ・オムニア』(一五六七)にも報告されている。

>「プラーグで絞首刑を宣告されたある男が、フェルディナンド大公の命により、砒素の実験に服することになった。彼は水薬になった毒を多量に飲まされた。四時間後に、彼は全身鉛色になり、衰弱して息も絶え絶えになった。医者は彼が死ぬものと信じて疑わなかった。ところが、ある粉薬の定量を白葡萄酒に混ぜて飲ませると、たちまち中毒の徴候はおさまり、回復に向いはじめた。翌日、彼は完全に直って釈放された。」

実のところ、砒素に対する唯一の効果的な解毒剤は、葡萄酒だったのである。パレを始めとする多くの医者が、最高の治療薬として酒を勧めている。何らかの理由で毒殺の脅威を感じているひとは、強すぎる香料だとか、調理された肉だとか、味の濃いソオスだとかを十分に警戒しなければならない。彼らは機会あるごとに、肉のスープを摂取したり、テリアカ(解毒剤)やミトリダテス糖果剤を空腹《すきばら》に飲んでおいて、いざという時に備えておかなければならなかったのであった。

#ls2(毒薬の手帖/ふしぎな解毒剤)

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