では次に、年代を追って、この途方もない女性の肖像を描き出してみることにしよう。以下に[[武氏>則天武后]]《ぶし》と呼ぶのは、のちの[[武后>則天武后]]のことである。

[[武氏>則天武后]]は最初、[[唐]]の二代皇帝[[太宗>太宗(唐)]]《たいそう》の妾のひとりにすぎなかった。

[[太宗>太宗(唐)]]の貞観《じょうがん》時代といえば、[[唐]]の黄金時代であり、漢民族の勢力が遠く西域《さいいき》やインド、サラセン帝国にまで伸びた絶頂期である。長安の都はさまざまの種族、―インドの僧、日本の留学生、ペルシアの商人などが、それぞれの服装をして歩きまわり、まことに国際色豊かであった。酒場では肌の白いアーリア系の女たちが客をひいていた。

[[唐朝>唐]]の制度によると、皇帝には后《こう》が一人のほかに、妃《ひ》が四人、昭儀《しょうぎ》が九人、捷茵圓靴腓Δ茵佞九人、美人《びじん》が四人、才人《さいじん》が五人、その下にそれぞれ二十七人から成る三階級の侍女がいた。これを総称して「後宮」というのであるが、いずれも皇帝の寵愛を受ける資格があり、皇帝と寝所を同じくする資格があった。[[武氏>則天武后]]は当時、六番目の「才人」の一人にすぎなかった。

太宗の死とともに剃髪して尼となり、習慣通り尼寺へ入ったが、じつはその前から、ひそかに太宗の息子の高宗と慇懃を通じていた。いわば近親相姦であるが、彼女はその非凡な頭脳と冷静な野心とによって、次代の皇帝たるべき皇太子と関係をつけておくのが、出世のための早道と計算していたのである。

彼女は背が高く、がっしりした身体つきをしていた。角ばった顔に顎が張り、額は広く偏平で、眉がくっきりしていた。それほど美人ともいえない。が、性格がおそろしく強く、宮中の侍女たちのだれよりもすぐれた頭をもっていた。

六四九年、父の死とともに帝位についた若い高宗は、病弱で、わがままで、気が弱く、最初から年上の[[武氏>則天武后]](高宗より五歳年長であった)を庇護者のように見ていたらしい。すでに彼には皇后王氏《おうし》がいたのであるが、尼寺で[[武氏>則天武后]]が彼の種を宿したことを知ると、強引に彼女を宮廷につれてきて側室の一人に加えてしまった。これには皇后の援助の手もはたらいていた。それというのも、皇后に息子がなく、妃であった蕭《しゅく》氏に皇帝の寵が移りかけていたので、皇后自身も[[武氏>則天武后]]を宮中に招じ入れて、美人の蕭氏に対して共同戦線を張りたいと考えていたからである。

そういう次第で、最初は皇后王氏と[[武氏>則天武后]]とのあいだは、きわめて親密だった。遠大な野望をいだいていた[[武氏>則天武后]]は、皇帝も皇后も蕭氏も、難なく手玉にとった。尼寺から宮中にもどって一年足らずのうちに、王室のすべての者を手なずけてしまった。

やがて[[武氏>則天武后]]は女児を生んだ。そしてこの機を利用して、皇后王氏を失脚させてやろうとたくらんだのである。[[武氏>則天武后]]はみずから皇后の地位につきたかったのだ。

女児が生まれて十日ほどすると、子供にめぐまれない皇后が見にやってきた。皇后は赤ん坊を抱いて、しばらくあやし、それから揺籃《ゆりかご》にもどした。皇后が立ち去ると、入れ替りにこっそり[[武氏>則天武后]]がやってきて、赤ん坊を窒息させて殺し、その上に蒲団をかけておいた。皇帝が発見して大いに驚く。[[武氏>則天武后]]も声をあげて泣きわめく。わが子を失った母親の嘆きは真に迫っていた。

結局、嬰児殺しの罪は皇后にかぶせられた。それにしても、野心のために自分の産んだ赤ん坊を手ずから殺すとは、何という恐るべき母親であろう。

皇后のために張られた罠は、そればかりではなかった。体の弱い皇帝が狭心症の発作を起すと、皇后が妖術を用いて帝の生命を断とうと企んでいる、という噂が流された。むろん、これは[[武后>則天武后]]の策謀である。帝の寝台の下から木彫の人形が発見されたが、その人形には、帝の名前と運勢の星が彫りこまれ、一本の釘が心臓部をつらぬいていた。

噂がひろまると、宮廷中は大騒ぎになった。皇后は犯人として捕えられ、身の潔白を証明しなければならない羽目になった。しかし、どうして彼女にそれができたろう。

先帝時代以来の忠臣であった遂良《すいりょう》や無忌《ぶき》などが、必死になって事態を収集しようと努力したにもかかわらず、ついに勅命がくだって、皇后王氏は、その犯行のため退けられ、宮中に監禁される身となった。かわって[[武氏>則天武后]]が皇后の座につくのである。かつて先帝の妾であった女、尼の身分で帝の種を宿した卑しい女が―。

廃后《はいこう》王氏はその後、蕭氏とともに牢から引き出され、百回の鞭打を受けた。それから[[武氏>則天武后]]の命により、二人の女は手足を切断され、腕と脚を背の方にねじ曲げられて、大きな酒[#樽の旧字]の中にどっぷり漬けられた。

「あの下司女どもを、骨の随までとろけるくらい酔っぱらわせてやるがよい」と[[武后>則天武后]]は、いった。二日ほどして、あわれな二人の女は死んだという。

こうして手はじめの犯行を終え、六五五年、首尾よく皇后の座につくと、次に[[武后>則天武后]]は、太宗の遺言執行人であった遂良、無忌などの老政治家をことごとく除いてしまった。そして政治の実権をしっかり我が手に握ったのである。夫の高宗は弱虫で、内気で、何でも[[武后>則天武后]]のいいなり放題である。

その上、[[武后>則天武后]]の嫉妬ぶかさには並はずれたものがあり、皇帝の気に入りの女性は、いつも何か毒物を食べさせられて原因不明の死をとげた。[[武后>則天武后]]の姉の韓国《かんこく》夫人は、ある日、食事の席で奇怪な痙攣を起して死んだ。またその娘の魏国《ぎこく》夫人(つまり[[武后>則天武后]]の姪)も、やはり母と同じ症状を示して、あえなく死んでいった。二人とも、皇帝の大のお気に入りだったのである。

高宗には、[[武后>則天武后]]以外の女に産ませた息子が四人あった。その四人の異母子たちのうち、三人までが叛逆罪や収賄罪の汚名を着せられて、次々に死刑を宣告された。のみならず、皇太子であった[[武后>則天武后]]自身の二人の実子も、毒殺されたり死刑にされたりした。

集計すると、異母子もふくめて[[武氏>則天武后]]の八人の息子のうち、一人は夭折したが、じつに五人までが母親によって殺されているのである。残る二人も十二年以上監禁された。そのほか、例の窒息死させられた幼児がいることは前述の通りである。

息子哲《てつ》の妻(つまり[[武后>則天武后]]の嫁)も、理由なく[[武后>則天武后]]の憎悪の的になり、宮中に監禁されて死んだ。何日か経って扉が押し破られてみると、彼女は餓死していたのである。

そのほか三人の嫁が、それぞれ屈辱死、密殺などの手段によって生命を断たれ、二人の異母兄が死刑に処せられて死んでいる。また二人の甥が謀殺され、二人の孫が笞刑によって殺害され、甥孫、甥の妻、伯母もそれぞれ殺されている。

ごくおおざっぱにいって、[[武后>則天武后]]はその在位期間三十年(晩年の治世を除く)のあいだに、太宗、高宗の兄弟一族七十余人、宰相、大臣級の高官三十六人を皆殺しにしてしまったのである。

政治上の粛清は別として、自分の親族をこれほど多く犠牲の血祭りにあげた女王は、おそらく歴史上にも類を見ないのではないか。また人間の母親として、おのれの血につながる息子や娘の命をこれほど軽んじた母親も、犯罪史上にめずらしいだろう。
#ls2(世界悪女物語/則天武后)

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