あたかもそのころ、彼女の前に圧倒的な男性の魅力をもって出現したのが、当時ほぼ三十歳になっていた精力的な軍人[[ボスウェル伯>ボスウェル]]である。

この[[ボスウェル伯>ボスウェル]]は、メアリ・スチュアートの伝記を書いたツヴァイクによれば、「一塊の黒大理石に刻んだような風貌の人物」である。スコットランドの古い貴族の名門ヘプバーン家の出身で、教養もあり、読書家であるとともに、生来の秩序に対する反逆者、大胆不敵な冒険家といった面もそなえていた。法律や道徳を無視することを屁とも思わず、奸策にたけた卑しい貴族たちを十把一からげに軽蔑していた。しんから男らしい、戦闘的な軍人である。

自分のまわりに頼りとする人物のいない[[メアリ>メアリ・スチュアート]]は、国家の支配を握るために、この豪胆な男の援助を求めた。ボスウェルは女王のために献身的にはたらき、次々に女王から重要な地位をあたえられ、たちまちのうちに、国内に強大な軍事的独裁権を確立してしまった。

最初から[[メアリ>メアリ・スチュアート]]は、このボスウェルのうちに情熱の対象たる男性を見出していたのではない。彼女が自分の恋に気がつくのは、かなり後になってからのことである。

それにしても、女王メアリ・スチュアートの[[ボスウェル伯>ボスウェル]]に対する恋くらい、歴史上、すばらしい情熱的な恋はない。それは、はげしく噴き出る一条の白熱した焔のようである。彼女はおのれ自身の情熱に圧倒され、翻弄され、くたくたに疲れ、さながら意志のない人形のように、夢遊病者のように、磁力に引かれて、おそろしい宿命と犯罪への道を歩み出すのである。

この情熱に対して、わたしたちが道徳的批判を加えてみたとて何になろう。どんな忠告も彼女の耳にとどくことはないし、どんな呼び声も彼女の目をさますことはあるまい。生涯のきわめて短い期間に、彼女の魂は異常な情熱に高まり、燃えあがって、その後はもう、燃えつきた魂の抜け殻にすぎなくなってしまう。まことに彼女こそ、ツヴァイクのいう通り「自己濫費の天才」なのである。

メアリ・スチュアートが書いたものとされている一連の恋文や詩が、今日に残されているが、これは彼女の恋文や詩が、今日に残されているが、これは彼女の恋愛がいかなる性格のものであるかを知るのに、貴重な資料である。

>あの方のために、それ以来、わたしは名誉をあきらめました
>
>あの方のために、わたしは権勢と良心とを進んで賭けました
>
>あの方のために、わたしは身内と友達とを捨てました

今までに[[メアリ>メアリ・スチュアート]]が知った男性といえば、十五歳の病弱な夫フランソワ二世と、髭のない柔弱な青年ダーンリとだけであった。むしろ彼女が保護者のような立場にあったといえるだろう。ところでボスウェルは、その荒々しい男性的な力によって、今まで彼女が片時も失ったことのない誇り、自信、理性を粉微塵に打ち砕いてしまったのである。固い殻が割れ、まだ知らなかった女性の歓び、支配される者の歓びが、彼女の内部に花ひらく。

ボスウェルは、[[メアリ>メアリ・スチュアート]]の女性としての誇りを台なしにしてしまった代りに、献身という新しいエクスタシーを教えてくれたのであった。王権、名誉、肉体、魂を、彼女はこの情熱の淵に惜しげもなく投げ棄てる。

とはいえ、この恋には最初の瞬間から、不吉な、宿命的な、犯罪的な暗い翳がさしていた。[[メアリ>メアリ・スチュアート]]には夫があり、ボスウェルには妻がある。いわば二重の姦通を、[[スコットランド女王>メアリ・スチュアート]]は犯したことになる。そして、この関係を永くつづけようとするならば、さらに犯罪の上に犯罪をかさねなければならないことは自明であった。

それに、[[メアリ>メアリ・スチュアート]]自身には、だれにもいえない絶望的な苦悩があった。ボスウェルは彼女をほとんど愛していなかったのだ。彼は、いわば馬に乗ったり戦争したりするのと同じように、男性的な遊びとして、女性を征服するにすぎない。一度その肉体を奪ってしまえば、もう彼には女など必要ない。

[[メアリ>メアリ・スチュアート]]は冷淡な男の前に膝まずいて、彼をしっかり引き留めておこうと懸命になる。あれほど誇り高かった女王が、あれほど毅然とした女性が、何というあさましい変わり方であろう!ボスウェルの妻に嫉妬して、彼女をおとしめようと企てる。自分の変わらぬ愛情を信じてくれ、と男に向って懇願する。しかし、幸福な結婚生活をしている野心家にとって、女王との単なる情事は、ほとんど魅力がない。

ボスウェルにとって魅力があるものは、ただ一つ、王冠である。スコットランドの王位である。―こう考えてみると、二人の呪われた恋人同士が気脈を通じて、あの名目上の国王ダーンリを殺害するにいたる成行きは、まことに必然的ともいえるだろう。不幸な女王には、情《つれ》ない男をつなぎとめておくために、王冠以外の餌が何一つなかったのだ。
#ls2(世界悪女物語/メアリ・スチュアート)

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